「自ら老いを招くなかれ」
―死水裏に、豈に龍の蔵ること有らんや―(『碧巌録』九十五則)
「流れの止まった静かな水に龍は住まない」ということ。別に、「臥龍は長に怖る碧潭の清きを」ともいう。波の静まったような処へ行くような龍は、直ちに人に打たれてしまうであろう。立派な龍(本物の禅僧)は波の荒巻く大海にこそ住むということ。
人生も老年期を迎えると、誰しも動きが鈍くなる。あまり口も効かなくなる。静かな海に月が映っているようなものであろう。そんなところには龍はいないのだ。「龍有るところには、風無きに浪を起こす」というように、老年を迎えても、あまり静かであっては自ら自分の存在感を薄くするだけであろう。
昔の人はわざわざ自分を年寄りらしく見せたり、年寄りらしく振る舞ったりしたものである。それは世間の風潮として長老が敬われたからである。現代は同時代に密着している若者が、時代をリードする若者主導の時代である。
そういう時代の老人には、「風無きに浪を起こす」ような気概がなくてはなるまい。早くいえば、年齢のことなどに囚われず、大いに若々しく生きることである。
私はこの頃人々に、「人生逆算法」というのを勧めている。普通だと自分の歳を加算的に考え、自分は去年よりは今年、昨日よりは今日というようにどんどんと弱く小さくなっていくと考え、自分を自分で惨めにするのだが、死を基点にして残された時間を逆算すると、なんと今日が一番若い日になるではないか。こうして残された時間の貴重さを噛みしめることによって、生活がおのずから活気に満ちてくるのを感じるこの頃である。
「水清ければ魚住まず」という諺もある。「われひとり澄めり」では人生が死水になる。若者の雑音にも耳を傾けなければ、生き生きとした臥龍にはなれない。清濁併せて呑むような気概がないと、ただ静かで清らかなだけでは、人生が凋むであろう。