―心は万境に随って転じ、転処実に能く幽なり―(『伝灯録』二、摩拏羅章)
心というものは、眼の前に現われたものに随って、自由にコロコロと変転する。しかもその転じていくその場その場に、実に深いものがある。この句の後に、「流れに随って性を認得すれば喜も無く、復た憂も無し」と続く。心の動きのままに心の本性を見てみると、心そのものには喜びも憂いも無いということ。
われわれは普通、心という固定したものがあって、それが絶え間なく周りの世界を認識するのだと考えている。しかし、実はそうではない。心そのものはもともと鏡のように無心であって、そこには喜びとか憂いとかいうものはないのだ。
ただ眼の前に現われたものが、その都度その都度の「心」を創り出していく。そう思うと心というものは、何と深淵なものであろう。何も無いからかえって何にでもなるという奥深さである。有るようで無く、無いようで有るというのが心の本性であるから、「幽玄」だと言うのであろう。
心というものは固定したものではなく、良いものを見ると喜び、悪いものを見ると憂鬱になるというように、コロコロと動くのでこころと言うのだと聞いた。心の本性を、そのように流れのままに掴むことを、「無心」というのである。無心と言っても何も思わないことではない。ただ喜びや悲しみの情に執着しないだけである。
われわれはそういう自由な心の流れを、「執着」によってせき止め、喜びとか悲しみとかいう心として、固着させてしまうのである。鏡の表面はもともと綺麗に透き通っているから、鏡そのものさえ存在しないように見える。われわれの心もそうでなければならない。
ところが我々の心は無心どころか、あれは好い、これは嫌いというように分別し、それにこだわる。これが煩悩というものの煩わしさで、せっかくの綺麗な心も、煩悩の垢でドロドロになってしまっている。
老齢になって腹も立たなくなったから、仏に近づいたのだろうかと言う人があった。それはただ鏡が曇ってしまっているからであり、そういう人はよいことがあっても喜べないであろうから、仏から遠のいてしまった証拠だと言えよう。