―十年帰ることを得ざれば、来時の道を忘却す―(『寒山詩』)
中国の寒山という山は深い山である。「寒山子」はそこに棲んでいた伝説的な隠者。微風が幽松を吹いている。その音は聴けば聴くほどよいものだ。その下でごま塩頭の寒山が書を読んでいる。十年も山を下らないうちに、登ってきた道さえも忘れてしまった、ということ。
人生というものは、山登りのようなものであると思う。高く登れば高く登るほど、視界が広がっていくのは楽しい。しかし、その喜びを得るためには、額に汗して登る努力をしなければならないのだ。
苦労を惜しむ人の登った山は低い。そのような処では、山の下の自動車の音や、犬の鳴き声まで聞こえて、平地にいるのと少しも変わらないだろう。もちろん視界も狭くて憂鬱である。
苦労して登っても、涼しい風の吹く頂上に坐ってみれば、到りつくまでの苦労などどこかへ吹っ飛んでしまうであろう。
大臣になった人も、専門の学者になった人も、また著名な芸術家も、一流の芸能人も、苦労せずにその場に登りついた人は、一人もいないであろう。成功の陰には並々ならぬ精進努力が隠れているはずである。しかもどの人の場合も、過去の苦労などすっかり忘れられているように見えるのは清々しい。
そういうことは、お互いの人生にとってもいえることだ。たとえば私には三人の子供たちがいて、今それぞれ一家をなして子育てに懸命だ。それを見ていると、自分も若い日にはこのように努力して子育てをしたのだろうかと、今になっては他人事のように思われてくる。老後の静けさに安らっていると、若かった頃の言い尽くせない苦労など、すっかり忘れてしまうのは、有り難いことである。
コツコツと働いて貯めた金で一軒の家を建てることは、並大抵のものではない。しかし、新しくでき上がったわが家に穏坐して、ビールの一杯も傾けているときは、もうそんな苦労などどこかへすっ飛んでしまっている。