―仏滅二千年、比丘に慚愧少なし―(『天聖広灯録』十八、楊億章)
仏陀が入滅されてから二千年もすると、さすがに大切な教えであった「恥を知る」ということが忘れられ、禅坊主たちはみんな悟りばかりを誇るようになってしまった。悲しいことだ。
宗教というものは、人間が絶望することから始まるものである。自分に誇らしげな者に宗教は無用である。無宗教の人は自分以外に頼るものを持たず、ただ「自分」だけが最後の拠り所と信じているから、自己について謙虚であるわけがない。
実存思想家のキェルケゴールという人は、「人間は身体と心、有限と無限、時間と永遠の総合である」と規定した。つまり矛盾するものの関係であるから、関係が破れることは充分あり得るということ。
そういう意味で人間存在には、可能性として「絶望」が潜んでいるのである。いわば人間は絶望することができる存在であり、それが人間の本質だというわけである。もっといえば、絶望しない人間は本来的に人間と言えない、ということである。
たとえば人間は、自己の存在を全面的に否定する「死」ということを知っている。死を知ることで、人間は「絶望」と向かい合うのである。だから自分の死に気づかない者は人間ではない、ということになる。
そうなると禅僧ほど「死」と向き合って生きる者もまたないであろう。キリスト教徒は自己の存在が罪であることを自覚しているが、それが神の愛を受ける条件であるから、死後天国に生まれるという希望がある。仏教でも他力救済的な宗派には、死後浄土に迎えられる信仰の歓びがある。
禅僧も絶望から出発するのだが、それが悟りの悦びにすり替えられるとき、自己の絶望性を忘れ、逆に傲慢になるのは、禅のもっとも危険な一面ではなかろうか。