専一に己事を究明する底は、老僧と日日相見報恩底の人なり。(「大灯国師遺誡」)
「ただひたすらに〝自分とは何か〟という課題にさえ取り組んでくれれば、たとえ百年の歳月を隔てようとも、日々この私と暮らす人といえる」という意味。京都紫野大徳寺の開山大灯国師が、弟子たちに残された遺言の一節である。
かつて建築家のイサム・ノグチは、「禅とは生活の技術である」と語り、正岡子規は、『病牀六尺』の中で、「禅とは平気で死ぬことと思っていたら、平気で生きることであった」と書いた。
禅というものは、要するに一人ひとり人間が、「自分は何のためにこの世にやって来たのか」、「どうすれば人間としての立派な生き方ができるか」、「何をもってわが人生の完成とするか」、というような課題と真正面から取り組むことであり、そういう課題を持って生きるとき、その人の中に釈迦や達磨は厳然と生きている、という仕方で「禅の命脈」が伝えられてきたのである。
振り返ってみるときわれわれは、毎日の生活をそのように張り詰めて生きているとは言い難いであろう。誰もがただ漫然と毎日の二十四時間を繰り返しているだけ、というような生き方しかしていないのではないか。しかしそのようなことでは、たった一度の人生がまるで時間の空回りというもったいないことになってしまうであろう。
そこでわれわれはどうしても一度、そういうマンネリズムの繰り返しという輪をどこかで断ち切らなければならない。しかし人生の再出発とでもいうような決定的な自覚にいたるためには、人生の途上において何らか、自分という一個の存在が根本から疑問符となるような出来事に出会わなければならない。
中国の箴言にも「退歩就己」というのがある。人生の途上において思わぬ出来事に出会うことによって、初めて「自分」というものが問題になる、ということであろう。
それまで外に向いていた関心が、方向転換して自分の方に向きを換えることは、言うほどに易しいことではない。さいわい何らかの出来事が契機となって、自分の存在が揺すぶられるようなことになれば、その時こそ人は、初めて自分の外へ出て自分を見つめるチャンスを得るのである。