禅語

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金佛不度爐 木佛不度火 泥佛不度水 きんぶつろをわたらず もくぶつひをわたらず でいぶつみずをわたらず

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

07月を表す季節の画像

―金仏炉を渡らず、木仏火を渡らず、泥仏は水を渡らず―(『川老金剛経』)

作られた仏像は、金仏は炉に入れれば溶けてしまい、木仏は火に燃えてしまい、泥仏は水に沈めば壊れてしまう。真の仏はそのように形でできたものではない。太陽が世界中を照らすように、天地一杯のものだ。

禅僧の丹霞天然(たんかてんねん)が洛陽の慧林寺に投宿した。あまり寒いので仏殿に祀ってある仏像を持ち出し、それを燃やして暖をとっていた。
院主が驚いて「何をするか」と呵責(かしゃく)すると、杖で灰を払いながら、「お舎利を取ろうと思いまして」と言う。院主が、「木仏に舎利などあるものか」と言うと、「舎利のないような物ならば、両脇の仏像も持ってきて燃やしましょう」と言ったという。おまけに罰が当たって眉毛が抜け墜ちたのは院主の方であった、というのだから始末が悪い。
ベストヒット歌謡祭2007に、ポップス部門で特別賞を受けた秋川雅史の「千の風になって」は、人々の間に墓についての議論を巻き起こした。自分は墓なんかにいないから、墓の前で泣かないで欲しいということが問題になったのだ。
もちろん墓などという石の固まりのなかに、死んだ人が眠っているなどと信じるような人などいないであろう。そうかといって千の風に向かって拝むのも、焦点の定まらない話である。歌の内容はどこまでも、死者の有りようについての知的観念の表示であり、深い信仰心を吐露したものではないであろう。
信仰心のある人が墓の前に香花や水を供え、至心に故人の冥福を祈る時、まさに「その時」、故人は墓に帰ってくるのである。私はそう信じている。
冒頭の禅語は、金仏や泥仏が無意味だ、などといっているのではない。ただ、仏を形あるものと信じこんでいる「観念の狭さ」を粉砕するための、デモンストレーションに過ぎないであろう。