―丈夫は自ら衝天の気有り、如来の行処に向かって行ぜず―
(『聯灯会要』二十八、長蘆体明章)
見込みのある男は、初めから天を衝くような意気を持っている。彼はどんな立派な仏の真似もしない。
だいぶ前、テレビで「舷灯」というドラマを見た。女房に先立たれた男が、希望を子供に托す。彼には彼なりの理想があり、息子や娘を自分の理想に向けて育てようとした。しかし、息子は芸能人となって故郷を捨て、娘は外国人と結婚して日本から出ていってしまう。
どんな親でも子供には、自分のできなかったような理想の人生を歩ませたいと願うものだ。それは彼の夢見る高い理想の世界である。ところが子供たちの夢は、そういう親の理想さえも遙かに超えているのである。
子供が親の思うように育ってくれることは、親にとって限りなくうれしいことである。しかし、それは親の喜びであっても、必ずしも子供の理想ではないであろう。残念ながら親というものは子供の大志の前には、涙を飲んで引き下がらなければならないものらしい。
昔の親孝行者は、親の言うことに忠実であった。現代の親孝行は、親を越える勢いを持っているから、親は涙して我が子を未知の世界へ送り出さなければならない。それが現代の親の蒙る試練であるらしい。
有名な芸能人の出世譚を読むと、たいていは親の反対を押しきって家を出ている。それは親にとって過酷な試練ではある。しかしそのように大志を抱いて故郷を後にした青年でも、故郷や親を忘れることがないことは、後で分かることだ。親はその日を待たねばならない。
まして意気軒昂な禅の修行者は、仏の歩んだ轍など見向きもしないというのである。