―渓声便ち是れ広長舌、山色豈に清浄身に非ざらんや―(『碧巌録』三十七則)
夜中に坐禅していると、渓川を流れる水のせせらぎがお釈迦様の説法と聞こえ、月の照る山の峰を仰ぐと、お釈迦様の清らかなおからだに見えてくる、という有名な蘇東坡の句。
スタインベックの「朝めし」という短編を読んで、これこそ禅の世界ではないかと思ったことがある。「こうしたことが、私を楽しさでいっぱいにしてくれるのだ」から始まるこの短編は、ロッキー山脈の中腹で綿摘みの一家と食べたパンと、ベーコンと、熱いコーヒーという、ごく日常的な朝飯のひとときの思い出である。
夜が明けて間もないころ、山を登っていく。濃い藍色の山の背後から射してくる光、テントから出てきた父と息子の鬚に光る露、若い女が赤ん坊を抱えて、馴れた手つきで焼くベーコンの匂い、赤ん坊がお乳を吸う音、男たちの「おはよう」という、愛想の良くも悪くもない挨拶などなど。
「それだけのことなのだ。もちろん私にも、なぜそれが楽しかったのか、理由は分かっている。だが、そこには、思いだすたびに暖かい思いに襲われる、ある偉大な美の要素があった」と作者は結んでいる。
さりげなく終わってしまう日常的な朝飯を、まだ冷え冷えとする清浄な山の空気の中で、朝日をいっぱい浴びながら食べたとき、著者スタインベックはそこにある「偉大な美の要素」を見たのである。そういうものを見たり感じたりする力は、われわれにも与えられているはずである。にもかかわらずその歓びを、わが手にし得ないのはなぜか。
答えは簡単明瞭。われわれの心が濁っていて、美しい物を見たり聞いたりする感性の窓が閉ざされているからである。さればわれわれは、もっと励んで五感の窓を磨かなければならないであろう。