―直に須らく懸崖に手を撒し、自肯承当すべし―(『碧巌録』四十一則)
禅の修行においては、崖っぷちからパッと手を放して谷底へ墜落するような覚悟がなければ、自分自身が「これだ」と言いきれる確信を持つことはできないという誡め。われわれの生活においてもまた、人生の真実について自分自身が納得できるためには、一度死線を越えるような体験が必要であろう。
五祖法演という禅僧は、「禅は夜盗のようなものだ」と教えている。別に泥棒の稽古をするわけではない。それはこのような話である。
あるところに泥棒稼ぎで生きた男があった。彼は盗みの技術を伝授するため、一夜息子を連れてさる屋敷に入った。親爺は宝の入っている長持ちの中へ息子を入らせると、いきなり蓋を閉めかぎを掛けて、大声で「泥棒だー」と叫んでひとり逃げた。
家じゅうの人に囲まれ、息子はどうすればいいか考え、鼠のような微かな音を立てた。家人が驚いて蓋を明けると、泥棒の息子は飛び出し、庭を横切り、その辺の岩を池に投げ込んだ。家人は泥棒が池に落ちたと思った。その隙に息子は屋敷を逃げ出て帰ってきた。この話を聞いた泥棒の親は、息子に泥棒の術を授けたという話。
本当のことを手にしようとすれば、このように命がけで体得しなければならないのだ。口先で習ったことなど、実際生活の場面になると、何の役にも立たないことが多い。やはりどんなことでも一度は恐い思いをして、身体を張ってやってみないと、自分のものにならないものらしい。
人から聞いて覚えたようなことは、いざという時、何の役にも立たないのだ。自分が命がけで覚えたことは、どんな逆境に直面しても、ビリともしない底力を持っている。それは人からもらったものではない、自分で作り上げた貴重な、自分だけの財産である。
われわれはみんな、そういう自分だけの家宝を持っていなければならないのだ。