禅語

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聞声悟道 見色明心 こえをきいてみちをさとり、いろをみてこころをあからめる

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

01月を表す季節の画像

―聞声悟道、見色明心(『雲門広録』中)
古人は自然の音を聞いて世界の真実を悟り、眼に入った色を見てわが心がどういうものかを明らかにしたのである。これをみて分かるように、あらゆるところに仏法への門が開かれているのである。

ある僧が五祖法演禅師に向かって、「私は禅の教えを求めているものですが、禅というものには、どこから入ればいいでしょうか」と問うた。すると禅師が、「お前さんはあの谷川を流れる水のせせらぎが聞こえるかい」と言われた。「はい、よく聞こえます」と答えると、「そこから入れ」と言われた。
そう言われて、いくら谷川のせせらぎに耳を傾けても、すぐに仏法の道理を悟ることなどできないであろう。その理由はせせらぎを聞く者の未熟さにあって、いくらせせらぎの音が仏の呼び声であっても、馬の耳に念仏である。
同じように大自然が宇宙の真理を眼の前に見せつけてくれていても、気づかない者にはまるで夢を見ているようなものであろう。南泉普願(なんせんふがん)という和尚は、庭に咲き乱れる花を指さして、「時の人、この一株の花を見ること、夢の如くにあい似たり」と言われている。われわれ凡人の眼は、骸骨の眼のようにポッカリ空いた節穴でしかないのである。
ところが苦労して道を求めてきた人には、何でもない日常的なものを見たり聞いたりするだけで、瞬間に世界の真相を見抜いてしまうのである。あるいは真理を攫んだ自分の、尊い心に気づくのである。
古人は、「(かつ)
て雪霜の苦に慣れて、楊花の落つるも也た驚く」(『虚堂録』他)と言っている。修行を重ねてきたものは、風に吹かれて楊花(ようか)
の花が飛ぶのを見たくらいでも、眩しいような実在の姿に、驚いてしまうものらしい。