―直心、是れ道場―(『維摩経』菩薩品)
「直心」という語には、真っすぐな心、素直な心、あるいは直接という意味で、真実にぴったりと合った心など、いろんな意味が含まれている。しかし、そういう「直心」を身につけることは、決して容易ではない。直心を保つことは、自分を鍛える「道場」にほかならない。
何かにつけ素直になれず、すぐに「斜に搆える」人がいる。そうかと思うと、たとえ自分にとって嫌だと思うようなことであっても、他人の言うことに素直に耳を傾ける人もある。やはり人間の生き方には個人差があって、必ずしも時代の趨勢に流されてしまう人ばかりではない。敢然として自己を貫く人もあるのだ。
一般的に見れば現代という時代は、どちらを見ても決して良き時代ではない。その中で生きようとすると、あまり素直過ぎては馬鹿を見ることが多いであろう。だからみんなが保身的にそういう悪への傾向に身を委ね、本来の美しい心、素直な心を捨ててしまうことになってしまう。
今日多く見られるように、人を信じることができず、常にまわりを気にして上目使いになり、ややもすると自分の殻の中に閉じ籠もってしまうのは、互いに依存しなければ生きられない人間としては、決して健全なあり方ではあるまい。
われわれはもう一度、自己の殻を破って無我の心境を開き、周りの世界をその中に包み込むような温かみのある人間関係と、自然に対しても近世以来の人間中心の傲慢を捨てて、大自然に抱かれつつ生きるような、生き方を回復しなければならない。
そういうことはしかし、近世以来人間の歩んで来た方向を逆転させることであり、容易なことではない。しかし、それこそが現代人に課せられている「試練」なのである。