禅語

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更参三十年 さらにさんぜよさんじゅうねん

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

06月を表す季節の画像

―更に参ぜよ三十年―(『碧巌録』四則)

禅の修行には終わりがない。悟りを得たと思ったら、それこそ新たな迷いの始まりだ。中国では昔から、三十年を修行期間の基準としたようだ。そうするとこれを二回も繰り返せば、人生はもうほとんど終わってしまうことになるわけだ。

大工さんや左官さんは、親方の家に止宿して師匠と起居を共にし、全身的修業をする。いわゆる徒弟教育という伝統的な教育システムである。昔は女の人には花嫁修業というのがあって、お嫁入り前の一定期間、他家の女中となって調理や裁縫などを習ったものだ。
洋の東西を問わず、どんな宗教にも厳しい「修行」というものがある。こちらは「修業」ではなく、「修行」と書くのが倣いである。
いったいこの二つはどのように違うのであろうか。私はかねてから次のように考えている。普通に使う「修業」では、初心者が次第に練習を重ね、最後に免許皆伝ということになる。ちょうど山を登るように、高い目標に向かって進むようなものだ。
これに対して宗教における修行の方向は水平方向であり、行く先は果てしない。修行の「行」には、どこまで続いても交わることのない平行線、というようなニュアンスがあるように思う。
宗教的修行には完成ということがない代わりに、出発点における求道の熱意のなかに、すでに目的は成就されているといえるであろう。
そういう意味では普通の「修業」のように、弟子が練習を重ねてだんだんと師匠に近づいて行くのではなく、「修行」において師匠は、常に弟子と共にあり、弟子は師匠と対等である。師と弟子のこのような構図は、学校教育における先生と生徒の関係の、理想的なあり方を示していないだろうか。