『臨済録』上堂の中にあります。
是の日、両堂の首座相見、同時に喝を下す。僧、師に問う、「還って賓主有りや」。師曰く、「賓主歴然」。師曰く、「大衆、臨済が賓主の句を得んと要せば、堂中の二首座に問取せよ」。便ち下座す。
臨済禅師の時代は雲水(修行者)が大勢いたので、僧堂も東西の両堂に分かれ、その各々に首座がいて、修行者を指揮統率して切磋琢磨、修行に励んでいました。
ある日、その両堂の首座が出合い頭に、同時に、「喝」を下します。その場に居合わせた一人の僧が臨済禅師に尋ねます。「両首座が同時に同音に喝を下し合いましたが、その間に賓主がありますか」。臨済禅師は、「賓主歴然――はっきり賓主がある!」と言い放ち、「若しその辺の消息を会得したければ、両堂の首座に聞いてみろ!」と云って、さっさと部屋に帰ってしまいます。
賓主歴然、何の事でしょうか。賓とは賓客の事、主とは亭主の事、見る主観と見られる客観、即ち、自己と自己の前に拡がる万物の事です。禅の悟りは自己と万物と一体同根の消息です。その消息を「自己」の立場より見ればすべて一味平等、差別がありません。賓主無しの端的です。また、万物の立場より見れば、万物は各々個性を持ち、男は男、女は女、老は老、幼は幼、大は大、小は小と、それぞれ独立して差別歴然としています。賓主歴然の消息です。しかも、自己と万物は一体同根ですから、平等と差別は表裏一体にして、別者ではありません。平等でありながら差別があり、差別でありながら平等である。即ち、平等即差別、差別即平等の世界です。両堂の首座が同時に同音に一喝したのに、「賓主歴然」と臨済禅師が喝破したのは賓主があって賓主なし、賓主がなくて賓主がある、平等即差別、差別即平等の当処を示そうとしたのです。
世間を見れば、男女、親子、師弟、老幼、賢愚、美醜、大小、長短、いろいろと差別があります。その差別だけでは封建的な差別社会になってしまいます。また、平等だけでは、みそもくそも一緒になって、悪平等です。平等即差別、差別即平等とは、そういう差別を認めながら平等であり、平等であるが差別があると云う事です。男は男、女は女、老は老、幼は幼、師は師、弟は弟とその立場を守って、その上での平等と云う事です。人間的には男と女、老と幼、師と弟は平等であるが、各々歴然と差別を認める、賓と主を区別する所に社会の和が保たれるのではないでしょうか。
豊橋の長円寺に三十八歳の若さで住した月舟宗胡和尚(一六一八~一六九六)の逸話です。月舟和尚はある時、先住職(隠居)の透関老僧と共に領主の板倉重宗に招かれます。重宗は中国人の書を取り出して、「難解なので読んでほしい」と月舟に手渡そうとします。月舟はその書を老僧に渡して読んで下さるように頼みますが、老僧は、「いや、長円寺の住職は貴公だ」と云って、月舟に勧めます。月舟は老僧に深く頭を下げ、その書を読み始めますが、ややあって、書の二、三ヶ所の読み方を老僧に聞きます。老僧も控え目に、「かくかく読むのではなかろうか」と答えます。月舟は老僧に謝しながら、全部読んで重宗に聞かせます。月舟は自分で読めても、あえて老僧を立てて問うたのです。重宗は、若い月舟が老僧の透関に花を持たせ、老僧もまた、月舟を引き立たせようと控え目に振る舞う態度に感動します。
師である透関、弟子の月舟、各々の気くばり、まさに賓主歴然の当処です。