禅に志を立てて先ず参じるのが「趙州無字」の公案です。その「無字」に参じて、来る日も来る日も無字一枚(無心になる為の修行)、機が熟し、ある日突然、思慮分別、煩悩妄想を打ち払って自分もない、居るべき大地もない、何もない、柳は緑を失し、花は紅を失して、真暗々の消息を得ます。いわゆる、大死一番の端的です。
しかし、そこに止まってしまっては犬死です。絶後に蘇り、もう一度、柳は緑、花は紅の明るい世界に帰って来ます。これが大活現前です。死んだものが再び息を吹き返す、この辺の消息を「枯木再び花を生ず」と云うのです。
「枯木に花を咲かす」と云えば「花まつり」を思い出します。四月八日は花まつり、釈尊の降誕会です。釈尊がお生まれになると天の神々が甘露の雨を降らせたという伝えから、仏像に甘茶をかけてお祝いする「灌仏会」の行事が始まりました。この行事は中国では唐の時代に始まり、日本では平安時代に宮中で行なわれるようになり、江戸時代になって一般の寺院でも広く行なわれるようになります。
この灌仏会を、釈尊がお生まれになった場所が花々が咲き乱れる「ルンビニー園」という花園であった事と、時あたかも四月八日という春爛漫の日であった事から「花まつり」として今日のように盛大に行なわれるようになったのは、大正時代に東京・浅草の真宗大谷派蓮窓寺住職安藤嶺丸師が「花咲爺さんからお釈迦様」のキャッチフレーズで「花まつり」運動をすすめた事に始まります。
「花咲爺さん」は江戸時代に出来た日本の昔ばなしで、正直者の爺さんが色々の苦労の末に、拾った小犬の力で宝物を掘り出したり、枯れ木に花を咲かせてお殿様より褒美を貰いますが、隣の欲深爺さんがそれを真似して失敗する、という勧善懲悪の童話です。
この昔ばなしを安藤師がジャータカ風(仏教童話)に解して、たとえ枯れ木でもよい灰の縁で再び花を咲かせる事が出来、枯れ木のように苦悩する人々でもよい教えを聞く事によって、心に花を咲かせる事が出来る、その爺さんこそがまさに釈尊だというのです。この話を中心に「花まつり」の運動をすすめたわけです。昭和に入って、友松円諦師(神田寺主管)の真理運動と連動していよいよ各地に定着し、今ではの寺でも「花まつり」として灌仏会を催すようになったのです。
「枯木再び花を生ず」、楽しい話ばかりではありません。背筋が凍る話もあります。江戸時代の享保の飢饉の話です。
享保十七年(一七三二)の大飢饉は全国に及び、特に四国地方は被害が痛ましく、伊予(愛媛県)に一人の農夫がいました。名を作兵衛と云い、普通の農民でした。作兵衛の父も子も妻も、相ついで飢え死にします。しかし、作兵衛は草の根や木の実を食べて、畑に出てよろよろしながら働きます。
丁度晩秋で、麦の種まきの時節です。彼は栄養失調で瀕死の末娘を背に負い、畑を耕そうとしますが、気力もついに絶えてその場に倒れ込みます。背の娘はすでに息絶えています。彼は麦種が一斗余り入っている俵を枕に身を横たえます。作兵衛の傍らを通る人が、彼にその麦を食べる事をすすめますが、彼はあえぎながら厳に云います。
「この麦を食べてしまったら来年の麦は生えない。この麦一粒は、明年の麦、万粒となる。私が今、これを口にしたところで数日の命をたもつに過ぎない。しかし、この麦種を畑におろすならば来年は多くの人の生命をたもつ事が出来る……」と云い終わって絶命したと云われています。
禅語
枯木再生花 (碧巌録) こぼくふたたびはなをしょうず
『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より