この語は雪竇重顕禅師の『祖英集』の中に見出す事が出来ますが、白隠禅師の『毒語心経』の著語にも、「徳雲の閑古錐、幾たびか妙峰頂を下る。他の痴聖人を傭って、雪を擔うて共に井を填む」とあります。
徳雲とは、『華厳経』の中で説く所の善財童子が遍参した善知識の一人で、南方の妙峰山に住したと云われている徳雲比丘の事。閑古錐とは使い古した錐の事で尖が摺りへって、角もなく丸くなり、無用の物として忘れ去られた存在と云う意味で、このように人知れず平々凡々、好々爺の如く生きて行く、悟りの頂点に達した消息を云います。痴聖人の「痴」は文字通りの「おろか」ではなく「愚」に徹した聖人を云います。
徳雲比丘は修行に修行を積んだ、閑古錐と呼ぶにふさわしい高僧です。しかし師は悟りの高峰(安住の地)に留まる事なく、迷いの娑婆世界に帰って来て、仲間の人と連れだって雪を擔うて井戸を填めている、雪をいくら井戸に投げ込んでも雪はとけてしまいます。雪で井戸を填める事は出来ません。とんでもない愚行だと嘲笑されるのがおちです。しかし、愚行だけれども、無駄だけれども、黙々と雪を運んで井戸を填める努力をするのです。「無」だとわかっていても、それが人間本来の「心」から発するものであれば黙々と実行する消息をこの語から学ぶべきです。
中国の毛沢東主席が好んだと云われる「愚公、山を移す」という話があります。
昔、愚公という愚かな老人が住んでいました。その土地は太行山・王屋山という大きな二つの山に挟まれて、他国への往来が大変不便でした。そこで愚公はその山をどけてしまう事を決意し、早速に取りかかります。毎日毎日土を掘り岩を掘り、それを何百里も離れた渤海まで捨てに行く、気の遠くなるような仕事でした。それを見ていた智叟という賢いと評判の老人があざけり笑って云います。
「お前さんは何という馬鹿げた事をしているのだね! 余命いくばくもないお前さんの、そのヤセ腕でどうするのかね!」
すると愚公老人が云います。
「私が死んでも、子や孫が私の望みを受け継いで、何時かは完成するはずだ! 山はこれ以上ふえる事はないから」
天帝はこれを聞いて大いに感銘し、愚公の思い通り、大力のある神に命じて、山の方を別の所に移したといわれています。
近頃、私達は何かと云うと、合理的か否かの判断で行動を起こします。合理的とは行為が無駄なく計算され、能率的に行なわれる事だと云われています。即ち「一」の行為をすれば必ず「一」以上の効果、実績が表われないと不合理と云って一蹴してしまいます。反省すべき事ではないでしょうか。
「永遠の目的に向かって永遠に努力する」のが大乗仏教の菩薩だと云われています。「雪を擔うて古井を填む」、じっくり味わってみるべき語です。
禅語
擔雪填古井 (祖英集) ゆきをにのうてこせいをうずむ
『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より