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絶学無為閑道人 (証道歌) ぜつがくむいのかんどうにん

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

10月を表す季節の画像

 永嘉玄覚禅師(675~713)の『証道歌』の劈頭に出てきます。

君見ずや
絶学無為の閑道人
妄想を除かず真を求めず
無明の実性即仏性
幻化の空身即法身

 「絶学」とは、学を絶つこと、怠け者の学生が学業を放棄することではありません。「無為(むい)」とは、なすことなくグダグダ日を過ごすことではありません。それは志を立てて以来、血の涙、玉の汗で、二十年、三十年と艱難辛苦、(つい)に学するに学するの法なく、修するに修するの道なきところに至って、しかも、今まで学んで来た法も、修して来た道も、すっかり忘れ果ててしまった。至極のんびりした境界(きょうがい)をいいます。そのような境界の人を「大閑(おおひま)のあいた人」という意味で「閑道人」というわけです。
 禅では良寛さんのような人を指して「閑古錐(かんこすい)」という言葉があります。それは使い古した(きり)は尖が摺りへって丸くなり、角もなく、無用なものとして捨てられ、忘れ去られた存在で、長屋に住む八ッつぁん、熊さんの手合いと同じく、人知れず、平々凡々、好々爺(こうこうや)の如く生きる人のことを意味します。
 「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず、悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」、この絶学無為の閑道人も、閑古錐も、学んだ法も、修した道も少しもちらつかせません。悟りだの迷いだの、禅だの仏だの、その影だに窺うことができません。それは馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのか、さっぱり見当がつかない消息です。妄想を除かず真を求めず、無明の実性即仏性……。
 そこまでくれば、事更(ことさら)に妄想を嫌うことなく、また、真だからといって求める必要はありません。迷いも当体がそのまま仏になる可能性をもっており、この生身の身体がそのまま、悟りの本体であるというわけです。
 禅宗の第四祖、道信(どうしん)禅師の法を嗣いだ牛頭(ごず)法融(ほうゆう)禅師に、こんな話があります。
 禅師が山中で独り、黙々と修行に励んでおられると、村人はいうに及ばず、通りすがりの人々までがその徳の高いことを知り、帰依します。山の小鳥や動物までが、花や果物をくわえて、禅師の前にお供えします。それほど徳があったのです。しかし、四祖道信禅師について修行をし、法を嗣ぎ、いよいよ修行が進むと、今度は人も寄りつきません。黙ってさっさと行ってしまいます。鳥も動物たちも知らん顔して通り過ぎます。どうしてでしょうか?
 あの方は偉い人だ! 高徳の方だ! と、他人からも鳥からも見透かされるようでは、まだまだ十分ではないというわけです。「釈迦も達磨も伺い知れず」と言われるような境界が、八ッつぁん、熊さんにわかるわけがないのです。
 京都妙心寺を開いた関山慧玄禅師は、大灯国師の法を嗣いで後、美濃の山奥、伊深の里で村はずれの荒れ屋に住んで、里人たちの農作業を手伝ったり、子どものお守りをして八年間、下男として過ごされます。京より勅使が来るまで、誰も気づくものがいなかったといわれています。