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浄躶々 赤洒々 (碧巖録) じょうらら しゃくしゃしゃ

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

02月を表す季節の画像

 浄躶々、赤洒々――巷に氾濫しているヌード劇場の宣伝文句ではありません。「(しゃく)」とは、一糸も掛けず、一物も持たない、はだか、むき出しのこと。
洒々(しゃしゃ)」とは、はっきりして清浄なこと。浄躶々も赤洒々と同じく、まる裸の一点の汚れもないところをいいます。
 すなわち、見栄も欲も外聞も捨てて、少しも隠すところなく、人間としてありのままの素裸の状態を「浄躶々、赤洒々」というわけです。
 それは修行に修行を重ねて、一切を放下して、純真無垢な赤子のような実に無邪気な消息です。赤子が「オギャー」と泣き叫ぶ姿を見てください。何の欲望も、何の野心もありません。迷悟、善悪、美醜、貧富、自他、是非、一切の分別心(あれこれとこだわる心)を離れて、文字通り天真爛漫、無念、無想、無心、清浄無垢(しょうじょうむく)の素裸の世界です。

生まれ子がしだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき(一休禅師)

 しかし、赤子の姿、そのままに大人になることはできません。目に見、耳に聞き、手に触れ、舌に味わい、知識を増し、分別心を逞しくし、余計なものがいろいろと付いてきます。名誉、財産、地位、主義など、余計な荷物も段々背負い込みます。これらへの執着を断ち切って、きれいさっぱりと投げ捨てた素裸の心を、浄躶躶、赤洒々というわけです。
 夏目漱石は小説『草枕』の中で、「智に働けば角が立つ。情に(さお)せば流される。意地を通せば窮屈だ」といっています。この智、情、意地をさらりと流して、洒々落々、自由自在に生きたいものです。
 浄躶々、赤洒々を地で行く生き方をした人は古来大勢おられますが、江戸時代初期の曹洞宗の禅僧、桃水(とうすい)雲溪(うんけい)禅師(1612~1683)もその中の一人です。
 桃水和尚は寺も名誉も地位も捨て、乞食となって諸国を放浪します。何ものにも拘束されぬ自由自在の自然の生き方が好きだったのです。
 諸国放浪の旅を続ける桃水和尚を気づかって、ついに二人の弟子が探索の旅に出ます。正月早々に出発して、春も過ぎ、夏も過ぎて、秋ふける頃、やっと、京都清水寺の裏山で大勢の乞食の群にまじって生活する師を見つけ出しました。驚いた弟子たちは一緒に帰るように懇願します。
 しかし、桃水和尚は帰ることを拒みます。また、さっさと放浪の行脚を続けます。弟子たちは必死でついて行きます。町々を乞食(こつじき)して坂本まで来ると、一人の乞食が道端で(らい)を病んで死んでいました。桃水和尚、弟子たちに手伝わせて、遺体を埋め丁重に供養します。そして乞食が食べ残した雑炊をとり上げ、半分ほど旨そうに食べ、残り半分を弟子に与えて食べるようすすめます。(はえ)がたかり悪臭が鼻をつきます。弟子たちは満腹と称して固辞しますが、桃水和尚、厳として許しません。「こんな食物が食べられないのでは、わしとともに行くことはできない」と叱咤します。
 弟子たちは目を閉じて一口、口に入れますが、たちまち「ゲェッ」と吐き出してしまいました。弟子たちはついに師について行くことを諦め、桃水和尚は行脚の旅を続けて、「七十余年、快なる哉」と遺偈を残して、坐禅をしながら大往生しました。

休々々(きゅうきゅうきゅう)(ところ)、亦た何をか休せん、喫茶喫飯、他に(もと)めず

と、休んで、休んで、休んで、休むことさえ()めた処、渇けば茶を飲み、腹が空けば飯を食い、(こん)じれば眠る、まる裸の自由自在の人間の生き方、これが乞食桃水の生き方です。桃水和尚の生涯、浄躶々、赤洒々といわなくて何といえましょう。
 私たちも一切を放下(ほうげ)して、無一物、「浄躶々、赤洒々」の人間本来の姿で生きたいものです。