山深く渓流の岩の上に草庵を結んで閑居する一人の老僧の所に一人の若い修行者が訪ねて来ます。早速に問答が始まり、修行者が問います。「如何なるか是れ祖師西来意」と。すると老僧は側にあった非常に長い柄のついた杓をスーッと差し出して、岩の下を流れる谷川の水を汲みとって、「渓深うして杓柄長し」と答えます。修行者はニコリと笑って立ち去ったと云われています。
谷川の水を汲み上げる時、もし谷が浅く流れが手近にあれば、柄杓の柄は短くてよいわけです。しかし、もし谷が深く流れが遠ければ、その柄杓の柄はそれに応じて長くなければなりません。ごく普通の平凡な話です。この中に祖師西来意、即ち悟りの心があると云うわけです。しかし、後世の禅家の人達はこの句を相手の機根、即ち働きと素質に応じて法を説く「応機説法」と解します。云うなれば「応病与薬」と云われるように、あたかも名医が患者の病気を正しく診察し、それに応じて適切な薬を与えて病人を救って行くように、禅の宗師家(指導者)は、修行者の機根に応じて自由自在に教化済度していく事をこの句は云うのです。即ち人を導くという事は、谷川の深浅、遠近に応じて柄杓の長短があるように、相手の力量、環境等を看破して臨機応変に働いてこそ、初めて出来る事だと云うのです。
昨今の学校教育は画一的と云われ、「一人ひとりを生かす」「一人ひとりを伸ばす」個性尊重の教育が求められています。その事を信念として教員生活を送った元中学校校長橋本一雄さんの「子供を見る目」と題するエッセイが潮文社発行の『心に残るとっておきの話』の中にあります。
ある日の放課後、主事(今の校長)の森清先生に呼ばれた。主事室に入り、何事かと直立している私に、主事は「まあ、かけ給え」と椅子をすすめ、微笑をたたえたおだやかな声で話しかけられた。ほっとする私に、
「君の学級の生徒の一人ひとりの長所について話してくれないか」
生徒の氏名は完全に覚えていたものの、長所となると、とぎれがちであった。
「では、短所を話してくれ給え」
今度はよどみなく答えることができた。
「君、鈍重な者は裏返してみれば、落着いていないかね。あわて者は機敏なところがあるかも知れないね。我々はともすれば、生徒の欠点や短所だけに目をつけたがるものなんだから、お互いにもっと長所や美点を見てやるように努めようじゃないか」
教育とは引き出すこと、無限の可能性をもつ生徒の能力や特性を伸長することだと信じて、実践しているつもりだったが、私自身の矛盾にみちた思いあがりに、グサリと刃を刺された思いであった。
橋本先生を導いた先生の話、これもまた、「渓深うして杓柄長し」の一つの消息ではないでしょうか。