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慧玄会裏無生死 (正法山六祖伝) えげんがえりにしょうじなし

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

05月を表す季節の画像

 京都妙心寺の開山、関山慧玄禅師(1277~1360)の禅風は厳しく、遺書も語録もありません。ただ、三転語(心の眼を開かせる示唆に富む三つの言葉)という短い言葉が三つあるのみです。そのうちの一つが、この「慧玄が会裏に生死無し」の言葉です。

 或る時、僧の来參するを見て呵斥(かせき)す。僧曰く、「(それがし)、特に生死事大、無常迅速の為にして来たる」。師(ののし)って(いわ)く、「慧玄が会裏に生死無し」といって、便(すなわ)ち打っておい出だす。

――あるとき、一人の僧が入門を乞います。それを見た関山国師は叱りつけます。僧は言います。私は生死の問題で大いに悩んでいます。時は人を待ちません。ぐずぐずしていることはできません。早急に生死をお教えください!と。しかし、関山国師は、「慧玄が会裏に生死無し」と打ちのめして追い出します。
 「俺のところには、生だの死だのというものは一切ない!」というわけです。
 私たちは生まれてきた以上、死んでいかねばなりません。死んでいかねばならない以上、よりよい死に方が問題となります。死に方が問題になる以上、生き方も問題になってきます。「(しょう)を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」といわれるように、生死の問題は私たちにとって一大関心事です。いわんや禅を志す者にとって、生死の解決が一番肝要な事柄のはずです。にもかかわらず、関山国師はどうして、「慧玄が会裏(わが家の内)に生死無し!」と断言したのでしょうか。
 関山国師は生死の事実を踏まえて、生死に振りまわされない自由の中で、生死を自分のものとしておられたのです。生とは何ぞや?死とは何ぞや?といった観念の遊びの相手をするほど、(ひま)がなかったのです。厳しい生死の実践が国師の日常生活だったのです。
 作家の吉川英治さんは、『忘れ残りの記』の中で、母親との別れを書いています。

さいごの息づかいらしいのが窺われたとき、ぼくたち兄妹は、ひとり余さず、母の周囲に顔をあつめて、涅槃の母に、からだじゅうの慟哭をしぼった。腸結核は、じつに苦しげなものである。ぼくは、どうかして、母が安らかな永眠につかれるように、という祈りみたいな気持ちから、ついつまらない智恵がうごいて『……お母さん、お母さんは、きっと天国に迎えられますよ。ほら、きれいな花が見えるでしょう。美しい鳥の声がするでしょう』と、耳元へ囁いた。
 そしたら、母はぼくをにぶい眼で見つめながら『……よけいな事をお云いでない』と、乾いた唇で、微かに叱った。……
 ぼくは三十で母と別れる迄、母に叱られた覚えは、二度か三度しかない。それなのに、母が、ぼくへ云ったことばの最後は、叱咤(しった)であった。
――よけいな事をお云いでない。
 それから、たった三十秒か四十秒の後に、母は子供の前から、物しずかに、去って逝った。

 「よけいな事をお云いでない」――吉川英治さんの母親の叱咤! 「慧玄が会裏に生死無し」と切り捨てた、関山国師の厳しさの消息と同一ではないでしょうか。
 私たちは、よけいな事をお云いでない! とキッパリ言い切れるだろうか! 藁をもつかむ気で、その言葉に飛びついたのではないだろうか! 如来さまが紫の雲に乗って、迎えに来られたのではないだろうか、と!