『碧巌録』第十四則に、ある修行者が雲門禅師に問いかけます。
「如何なるか是れ一代時教――お釈迦さんが一生涯かけて説かれた教えとは一体なんでしょうか」。
雲門云く、「対一説」。
字句について解釈すれば、「一に対して説く」「一説に対す」「対して一説」、いろいろと訓読みすることができます。しかし、そう解釈してしまっては、この語の面白さはなくなります。
「対一説」と丸呑みに読んでいただきたいのです。
釈尊は初転法輪(初めて説法をされたこと)以来、涅槃まで四十九年間、大勢の弟子や信者たちに毎日毎日どのような説法をされたのでしょうか。恐らく、ただ単なる自分の思想の伝達ではなく、釈尊の人格と、聞く人たちの心のふれ合いではなかったのでしょうか。近頃、書店などで、「上手な話し方」などという本が出ていることがありますが、どんな美辞麗句をつらね、言葉のあやを細工しても、話し手の人間に魅力がなければ、聞き手は感動しません。たとえ短い素朴な言葉でトツトツと話しても、そこに真実があれば、聴衆は深い感銘を残すものです。そういう真実のある話が「対一説」なのです。
明治時代の落語の名人といわれている三遊亭円朝と、無刀流をあみ出した剣道の達人山岡鉄舟にこんな因縁話があります。
鉄舟はたいへんな母思いの人であり、国事が多忙になればなるほど、いよいよ母を恋う心が増します。ある日、鉄舟は当代の話術の名人といわれる円朝を招いて、「母は私が幼いころ、眠るときいつも『桃太郎』の昔ばなしを繰り返ししてくださった。今日はひとつその桃太郎の話を聞かしていただいて、母を偲ぼうと思う」と円朝に口演を頼みます。
円朝はお易いご用とばかりに、話術を尽くして面白おかしく『桃太郎』を語ったけれど、鉄舟はなぜか少しも喜びません。
「私の母は学問もないし、話も下手だったけれど、私の心に母の『桃太郎』はしみ通った。しかし、君の話からはそれが感じられない。君は舌で話をしているからだ」
円朝はこの「舌で話をする」の一言が胸に刺さって苦しみます。ついに鉄舟の門を叩いて禅を学び、修禅に励みます。あの渋味のある重厚味あふれる円朝の芸風は、その因縁があってから完成したといわれています。円朝が自分の号を無舌居士と称するようになったのもそのころです。
「対一説」。それは「無心」に通じ、「無舌」に通じます。私たちは毎日ギスギスした人間関係のなかで生活しているのですが、「おはようございます」「こんにちは」「おやすみなさい」「ありがとう」「はい」――こんな日常のひとつひとつの言葉にも、「対一説」の心でありたいものです。
禅語
対一説 (碧巌録) たいいっせつ
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より