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昨夜一声雁 清風万里秋 (禅林句集) さくやいっせいのかり
せいふうばんりのあき

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

11月を表す季節の画像

 昨日の夕景、空を見上げると、北から南へ雁の一群が鳴きながら渡って行った。暑い、暑いと思っていたが、もう雁が渡って来る季節になったのかと物思いにふけったものだ。今朝起きてみると、清々しい風が吹き渡って、もう至る所、秋の気配がするわい――といった情景です。
 あるいは、むしろ、今朝もむし暑い残暑の気節だが、昨夜一群の雁が渡って行ったのを思えば、暑い中にも何かしら秋らしい雰囲気がある――と解釈した方が面白いかも知れません。
 いずれにせよ、誠に秋らしい佳句です。しかし、禅家がこの句を多用するのは、ただ叙景詩として優れているからだけではありません。昨夜一声の雁は、修行者が長い修行の末、機縁熟して、ある日、忽然として悟りを開くことを意味し、そして、一夜明ければ、すなわち、悟りを開いて見れば、今までのモヤモヤが消し飛んで、スカーッとした清々しい気分を「清風万里の秋」と頌したのです。
 なにも禅の悟りを待つまでもありません。私たちの日常生活の中で、何か一つすばらしいこと、清々しいことを聞けば、残暑厳しい中でも万里清風の思いがするのです。

 ことし三月十六日夜、豊橋市のあるボーイスカウトの一団が、水筒を肩にかけて、地元を出発した。
 小学校六年生から中学二年生まで三十七人、それに引率の先輩たちである。めざすは、ここから五十二キロ離れた宇連ダムである。
 春とはいえ、まだ夜は寒い。小雨もぱらつく。交通量の多い国道を通るため、夜光塗料を塗ったタスキをかけている。途中、新城市の公園で夜食をとる。これまでボーイスカウトの訓練で夜間行進をしたことがあるが、今度はきつい。
 眠くなる。足が痛くなる。そのたびに先輩から「頑張れ」の声がかかる。行けども、行けども目的地は遠い。十一時間後の十七日朝七時半ごろ宇連ダムに着いた。山々にかこまれたダムの朝はすがすがしい。こどもたちは、水筒の水をダムのえん堤から一斉に流した。拍手とかん声が起きる。渇水で水位をさげたダム湖に、水筒の水は消えた。
 この一瞬のためにこどもたちは長い道を歩いた。豊橋をはじめ愛知県東三河地方は、昨年秋から慢性的な水不足になった。この一帯をうるおす豊川用水の水源である宇連ダムは、ことしはじめにはカラになった。
 こどもたちの家庭でも、水に対する関心が高くなった。そんなとき、このこどもたちは、すこしでも水をダムに返してやろうと、近くのお寺の井戸からくんだ水を水筒につめて運んだのだった。……
 自分たちの飲む水がどこから来るのか、こどもたちは勉強した。そして、日ごろ水をむだ遣いしている大人たちへの警鐘にもなった。  (昭和六十年七月二十三日『朝日新聞』夕刊「今日の問題」)

 道元禅師は谷川の水を汲んで杓底の水を元の谷川に還されたといわれます。茶人は釜から柄杓でお湯を汲み、必ずその半杓の湯をもとの釜にもどします。水筒の水を水源地のダムに還す、それは量の問題ではありません。水を大切にする「心の問題」です。
 まさに暑いさ中、一声の雁のように秋を呼ぶにふさわしい話ではないでしょうか。清風万里を渡るように、清々しさを感ぜずにはおれませんでした。