『碧巌録』第三則に、こんな話があります。
馬大師不安。院主問う、「和尚、近日尊候如何」。大師云く、「日面仏、月面仏」。
「馬大師」とは、禅宗第八祖馬祖道一禅師(唐代の代表的禅僧。709~788)のことです。「不安」とは、病気になること、「院主」とは、寺務を主宰する役です。
馬祖道一禅師が、あるとき病気になられます。病勢いよいよ悪化して、余命いくばくもないとき、寺の執事があたふたと見舞いにかけつけます。「和尚、ご機嫌いかがですか」という問いに対して、馬祖は答えます。「日面仏、月面仏」と。
「日面仏」とは、賢却千仏(現世において出世される千人の仏さまたち)の第五十八仏で、千八百歳という寿命の長い仏さんです。「月面仏」とは、“がちめんぶつ”と読み、賢却千仏の第二百二仏に当たり、一日一夜という寿命の短い仏さまです。
馬祖は千八百歳まで生きる仏さまもあれば、一日一夜の仏さまもあるではないか、病気など気にするな、「生きるもよし、死ぬるもよし」と、泰然自若として言いきったのです。
病む時は、病むがよろしく候
死ぬ時は、死ぬがよろしく候 (良寛和尚)
とばかりに生死を超越したのです。否、この「日面仏、月面仏」の裏には、しかめ面した執事を見て「ウッフッフッ、このウスノロ坊主めが、何をあたふた走りまわっているんだい。今の俺の境界は釈迦と雖も、達磨と雖も窺い知ることはできやしないぞ! 况んや、ましてお前などには、ウッフッフッ……」とばかりに、死に瀕しながら、余裕綽々と自分の悟りの深さを楽しんでいる様子が見えます。
明治歌壇の雄であり、アララギ派の祖である俳人の正岡子規(1867~1902)の辞世の句にあります。
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
この、痰のつまりし仏かなは、今死んで行く正岡子規自身です。痰が喉につまってゴロゴロし始めます。もうふっ切る力も、飲み込む力もありません。事実、このために数時間の後に息を引き取るのですが、その死んで行く自分を冷静に見つめて、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」と俳句を作れる正岡子規は、完全に生死を超えていたのです。すなわち、生死を超えるとは「死」を諦めるというのではなくて、それ以上、「死」を楽しむ境界が「仏かな」と表現させたのではないでしょうか。生にもとらわれない、死にもとらわれない永遠の自己を、しっかりと把握していたのです。
馬大師のいう「日面仏、月面仏」と、子規のいう「痰のつまりし仏」とは、一脈相通ずるものがあるのではないでしょうか。