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東山水上行 (雲門録) とうざんすいじょうこう

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

07月を表す季節の画像

 ある僧が、雲門(うんもん)禅師に問いかけます。「如何(いか)なるか()れ諸仏出身の処―悟りの境界(きょうがい)とはどういうものでしょうか」。雲門答えて(いわ)く、「東山(とうざん)水上行(すいじょうこう)」、すなわち東山が水の上を行く。動かぬ山が川を流れて行く。一体どういうことでしょうか。
 別に「東山(とうざん)」という固有の山があるのではなく、それは連山(れんざん)よりも、むしろ富士山のような孤峰(こほう)であれば、西山でも南山でもよかったのです。
 「動かざること山の如し」といわれるように、風が吹こうが、雨が降ろうが、泰然(たいねん)自若(じじゃく)として動じることなく、雲を貫いて高々と(そび)え、風に乗じて十方に拡がって堂々たる雄姿を見せます。
 川は山奥の渓流に源を発して、高きから低きへと無心に流れて、ついに大海に入ります。前途に如何なる障害物があろうとも、自在に流れを変えて、信じられないような大きな力を発揮し、岩をも削り取って力強く流れて行きます。
 ある日、都会の喧騒を離れて、静かな山村にやってきます。たまたま、滔々と流れる大河の岸に立って静かに彼方に聳える秀麗な山を見ていると、大自然の偉大さに、見ている自分もなくなり、聞いている自分もなくなり、山と一枚、川と一枚の忘我の境地、すなわち天地ヒタ(・・)一枚(・・)の無心無意の心境になることがあります。自己も無心、山も無心に聳えて動かず、川も無心に流れて止まらず、この妙趣はなんと説いても表現できるものではありません。それをあえて表現しようとすれば、動静(どうじょう)(動くものと、静かなもの)を超えて、「東山水上行」と非論理的に(じょ)するしかありません。
 自分の意識分別を断ち切って、山を見るときは山に、川を見るときは川に、自分を没入し去って、山になり切って山を見、川になり切って川を見る人こそ、本当に川を知り、山を知る人であり、東山水上行の奥義(おうぎ)()る人ではないでしょうか。
 道元禅師は、「而今(じこん)山水(さんすい)古仏(こぶつ)(どう)現成(げんじょう)なり。ともに法位(ほうい)(じゅう)して、(きゅう)(じん)功徳(くどく)を成ぜり――今、眼前の山水の自然の姿はそのまま仏の悟りであり、それ以上の教説はあり得ない」と言っておられます。山水は常に私たちに語りかけているのです。その言葉を聞くことのできる人が、山水の偉大さをそっくり自分のものとすることができるのです。
 山や川は見るだけで私たちの心を大きく、広く、力強くさせてくれます。昔より、名山や名川を見て育った人に英傑(えいけつ)が多いといわれるのもその所以です。
 東山水上行、それは私たちに、“もっと自然に学べ”と教えているようです。