この話は「袖中に日月を蔵す」「別に是れ一壺の天」などの語と同義語です。
中国の『後漢書』費長房伝に、こんな話があります。当時、汝南の町に壺公と呼ばれる一人の薬売りの老人が住んでいました。壺公はいつでも夕方、店を閉めると店頭にぶら下がっている小さな古びた一箇の壺の中に、ヒラリと飛び込んで身を隠してしまいます。このことは町の誰一人として知るものはいなかったのですが、ついに費長房という役人に見つかってしまいました。費長房は面白半分に、ぜひ一緒に連れて行くようにと頼みます。壺公はしぶしぶ承諾し、ある日の夕方、費長房を連れて、壺の中へヒラリと飛び込みます。入ってビックリ、壺の中はこの現実の世界と同じように広大無辺で、一箇の別天地を造っていたのです。
金殿玉楼が聳え、広い庭園には珍しい樹や花がいっぱいに花を咲かせ、泉水などもいたるところに設けられ、誠に目を見張るばかりのすばらしい世界でした。
壺公はその国の主人で、仙人だったのです。費長房は、侍女たちから美酒佳肴のもてなしを受けたり、いろいろな仙術などの指導を受けたりして、現実の世界に帰ってくると、本人は二、三日滞在したばかりと思っていたのに、十数年も経っていたというのです。日本の浦島太郎のような仙話から、この語は発生しているのです。
「壺中」とは、壺の中の別天地、仙境のことであり、ひいては、悟りの妙境といっていいでしょう。「日月長し」とは、「山中暦日無し」のことで、二十四時間、時間に追いかけられてただなんとなくガサガサと過ごすのではなくて、却って時間を使役して、時間に追われることなく悠々と人生を送る消息を「日月長し」というわけです。
しかしこの語は、すべてを悟りきった道人が世間から離れて山中に草庵を結び、悠々閑々、自適の生活を楽しむ様子とのみ解しては、少々早計すぎます。
むしろこの語意は、私たちの生活の中で学び取る必要があるのではないでしょうか。
壺中とは、仙人の住むところではなく、この現実の齷齪働いている職場であり、狭い我が家です。この生活の修羅場で、「私が」といった我執(エゴ)を断ち切って、何ものにもとらわれない大きな心を啓発すれば、狭い我が家もそのまま、すばらしい壺中の別天地であり、職場もまた、そのまま桃源郷となるはずです。さすれば、日月長し、二十四時間精いっぱい使いきって、充実感あふれる一日を過ごすことができるのではないでしょうか。
この雑沓渦巻く戦場のような世界が、心の持ち方一つで、そのまま壺中であり、仙境であり、悟りの妙処となることを教えています。
禅語
壺中日月長 (虚堂録) こちゅうじつげつながし
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より