釈尊は、紀元前462年頃(異説がある)、ヒマラヤ山麓の小国、釈迦国の王子として生を受けられます。
父は国王スッドーダナ、母はマーヤといい、伝によれば、マーヤ夫人がお産のため、隣国コーサラ国に帰る途中、ルンビニー園を散歩中、急に産気づかれて、右脇下よりお生まれになり、すぐ、右手は天を指し、左手は地を指し、七歩周行、四方を目顧して、「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと伝えられています。
釈尊とて、私たちと同じ人間です。生まれてすぐ歩くことなどできるわけがありません。恐らく「オギャー、オギャー」と元気な産ぶ声をあげてお生まれになったに違いありません。「オギャー、オギャー」と手足をばたつかせて泣き叫ぶ姿には、何の衒いも、こだわりもありません。天真爛漫、天地いっぱいのありのままの姿です。一人の人間の生命の誕生と、その躍動、この姿以上に偉大にして尊厳に満ちたものがあるのでしょうか。何人といえども、これを犯すことはできません。この消息をふまえて、後世の人々が伝説的に、「天上天下唯我独尊」と、人間の尊厳を謳いあげたのです。
「右手は天を指し、左手は地を指し、七歩周行、四方を目顧し」とは、宇宙、空間への拡がりです。天上天下を具体的に説明したのです。天地いっぱい、宇宙いっぱいということです。「唯我独尊」とは、お山の大将、おれ一人といった思い上がりではありません。唯我の我は、個人的な私の我ではなく、全体的な唯一絶対の我です。天地いっぱい、宇宙いっぱいの自分のことです。その拡がりの中で、今!此処に!自分を確かめるとき、宇宙広しといえども、この自分は一人しかいないのです。だから尊いのです。かけがえのない自分なのです。一人しかいないかけがえのない自分なるがゆえ、大切に生きていかねばならないのです。
大森黎さんの書いた「大河の一滴」という小説があります。その中に、主人公の女性と身体の不自由な嫁との対話があります。
……こんなわたしなんて、一体、なんのために生まれて来たんですか、なんだってこんな格好して、今、生きていかねばならないんですか、おしえてください、わたしは、一体、どうして……。
……いつだったか、ずっと前のことだけれど、新聞でこんな文章を読んだことがあります。人間というものは、悠々と流れる大河の水の一滴のようなものだ、という文章です。なんだか、そのときずしんと来て……。今でも覚えています。“その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年さかのぼってもこの私だけで、何万年たっても再び生まれてはこないのだ”というその言葉のこと。そして“しかもなお、その私は依然として大河の水の一滴にすぎない”という言葉も……。(大森黎ほか『大河の一滴』読売新聞社)
「人間というものは悠々と流れる大河の一滴だ」という言葉が、嫁を立ち直らせます。この世に、“オギャー”といって生まれてくる。その生命の一つ一つは、悠々と流れる大河の水の一滴にすぎないのです。しかもそれは、二度と生まれてくることのない、かけがえのない一滴でもあるのです。かけがえのない、代えることのできない私たち!まさに「天上天下唯我独尊」です。自分が一人しかいない尊い存在であることがわかれば、他人もまた、一人しかいない尊い存在であることに気がつかねばなりません。君もあなたも「独尊」、犬も猫も、それぞれ「独尊」です。存在する万物の一つ一つが、差別を越えて、「唯我独尊」であり、かけがえのない大切な生命を持っているのです。