道元禅師(1200~1253)が中国の天童山で修行中、一人の老僧の典座(台所で雲水たちの食事を作る役)から教わったことを書き記した『典座教訓』の中にあります。
山僧天童に在りし時……典座、仏殿の前に在りて苔を晒す。手に竹杖を携え頭に片笠無し。天日熱し地甎熱す。汗流れ徘徊すれども力を励まして苔を晒す。稍苦辛を見る。背骨は弓の如く、龐眉は鶴に似たり。山僧近く前(すす)みて便ち典座の法寿を問う。座云く、「六十八歳」。山僧云く、「如何ぞ行者人工を使わざる」。座云く、「他は是れ
吾にあらず」。
――昔、私(道元禅師)が中国の天童山にあって修行中の話です。一人の老いた典座の僧が仏殿の前で苔、すなわち椎茸を日に干しています。杖にすがってやっと身を保っている様子で、しかも頭には笠もかぶらず、夏の暑い陽射しが照りつけ、敷瓦も焼け尽きるようです。老僧の額からは汗が流れ落ちるが、一生懸命椎茸を干し続けます。見るからに苦しそうです。背は弓のように曲がり、眉は鶴のように白い。私は大変気の毒に思い、老僧の年を聞くと、六十八歳という。何故、下働きの寺男を使わないのかというと、「他は是れ吾にあらず」とピシャリといわれます。
「他は是れ吾にあらず」――他の人に何事でもしてもらっては、「自分でしたことにならぬ」というわけです。自分が眠たいとき、他人がいくら眠っても眠気はとれないものです。他人がどれほどご馳走を口にしても、少しも自分の腹の足しにはならぬのです。自分に課せられた宿題は、他人に解いてもらっても何の役にも立ちません。
「人の水を飲んで冷暖自知するが如し」という言葉があります。水の冷たさは、たとえ千言万語を費やしても説明することはできません。水を飲む者自らが知るのです。他は是れ吾にあらず、同じ消息です。
先日の『朝日新聞』に、十六歳の女子高校生の投書がありました。彼女の友人がビルの階上から飛び降り自殺します。彼女は大きなショックを受けます。「先生も識者も強く生きなさいという」けれど、「人間は何のために強く生きなければいけないのか」「人間に生まれて、生きる目的もなく、ただ名利だけを追い求める人生であってよいのか」と問いかけ、「誰か教えてください。本当の人生の目的を」と結んでありました。数日後、同紙に三百五十通の意見が寄せられ、数篇の投書が発表されました。どれも真剣に人生を考えた傾聴に値する意見でした。
しかし、「誰か教えてください。本当の人生の目的を」――果たして人から教えてもらった人生の目的で、満足できるでしょうか。納得できるのでしょうか。他人の意見は所詮、他人のものです。彼女自身のものではないはずです。投書の中にもありました。
「本当の生きる意味は暗中模索、試行錯誤、生きてゆくプロセスの中で自分なりに把握することではないでしょうか」「万人共通の目的などあるわけはありません。一人ひとりが一生かかって自分なりの目的をみつけ、それに向かって努力していくものではないでしょうか」――と。
(昭和六十一年五月二十五日「声、若い世代」、同年六月三十日「社説」参照)
山本有三さんの詩にあります。
たった一人しかない自分を
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら
人間生まれてきたかいがないじゃないか (『路傍の石』より)
「他は是れ吾にあらず」。所詮、私は私だけの私です。大切に生きてゆきましょう。