禅語

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安禅不必須山水 滅却心頭火自涼 (碧巌録) あんぜんはかならずしもさんすいをもちいず
しんとうをめっきゃくすればひもおのずからすずし

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』

(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

08月を表す季節の画像

 中国晩唐の詩人に杜筍鶴(とじゅんかく)がいますが、その詩の「夏日、悟空上人の院に題す」というのが元の句です。

三伏門(さんぷくもん)(とざ)して一衲(いちのう)を披す
()ねて松竹の房廊(ぼうろう)(おお)う無し
安禅(あんぜん)は必ずしも山水を(もち)いず
心中を滅得(めつとく)すれば火も(おの)ずから涼し

 ――夏の暑いまっさかりに、悟空上人という方は相変わらず一枚の破れ衣をキチンと身に着けて坐禅をしておられます。しかも炎熱を避ける一株の
松も一本の竹もない、まったくの炎天下と同様です。この方を見ていると、坐禅をするのに静かな山中か水辺に居を求める必要はなさそうです。上人のように心頭を滅却し寒熱を超越された方は、暑さに心を(わずら)わされることもなく、炎熱もまた楽しといった様子です――。
 この句の下二句を、特に持ちきたったものです。しかし、この語を特に有名にしたのは、山梨県塩山、恵林寺の快川(かいせん)紹喜(しょうき)禅師によってです。『風林火山』で有名な甲斐の武田信玄は、この恵林寺の快川禅師に帰依(きえ)して禅を学びました。
 武田家が織田信長のために滅亡させられた折り、快川禅師は武田家に殉じます。
 信長は快川が住していた恵林寺を急襲して焼き討ちをかけます。快川以下一山の僧、百余人を山門楼上に追い込み、山門の囲りに薪を積んで四方から火を放ちます。火はたちまちに燃え拡がり、猛火の中に一同悠然として死んでゆきます。
 火に包まれながら、禅師が最後に弟子たちに教えた言葉がこの語です。
 「安禅」とは、坐禅と同意味、「心頭」の頭と「滅却」の却は、ともに助字で、特に意味はありません。
 じっくり坐禅をするには、山中や、水辺の静かな環境が望ましい。しかし、大徳寺(京都紫野)の開山、大灯国師が、

坐禅せば四条五条の橋の上
往き来の人を深山木に見て

と歌われたように、坐禅も長年修行を重ねて練熟してくると、雑沓渦まく都塵(とじん)の中でも坐り抜けるものです。否、却ってそういう中で禅定に入ることができなければいけないのです。
 「心頭」とは、物事にこだわる分別執着の心(煩悩)です。「滅却」とは、その心に煩わされたり、乱されたりすることがないことです。すなわち、分別執着心を断ち切って無心に徹すれば、雑音も熱さも無関係です。自分を焼き尽くす猛火の熱さ、恐ろしさに、振りまわされない自分をしっかりと確立しさえすれば、「火も自ずから涼し」ということになるのです。
 火は熱いものです。熱さに変わりありません。しかし、熱さをそのままに熱さとして受け取る静かな澄みきった境地を、「涼し」と表現しているのです。
 禅はありのままに受け取る心を育てるものです。火を冷たいと感じる奇蹟は禅にはありません。