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惺惺著 (無門関) せいせいじゃく

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より

07月を表す季節の画像

 『無門関』第十二則にこんな話があります。

瑞巌(ずいがん)(げん)和尚、毎日自ら主人公(しゅじんこう)()び、()た自ら応諾す。乃ち云く、
惺惺著(せいせいじゃく)(だく)他時(たじ)異日(いじつ)、人の(まん)を受くること莫かれ、(だく)(だく)」。

 「惺」とは悟るとか、心が落ちついて静かな様子をいいます。「著」とは意を強くする助辞、「惺惺著」とは「目をさませ! ぼんやりするな!」と解します。「主人公」とは本当の自分自身の事、「喏」とは「ハイ」と返事をする事、「瞞」とは他人にだまされるという意味です。
 瑞巌師彦(しげん)和尚は浙江省の丹丘、瑞巌寺に住した人で、唐代の禅僧、(がん)(とう)奯(ぜんかつ)禅師(八二八~八八七)の法を嗣いだこと以外、生没年等一切不詳です。しかし、この「瑞巌主人公」ともいわれる公案のゆえに有名なのです。
 師彦和尚はいつも庭前の石上に坐り、大声をあげて自問自答します。
 「主人公――師彦和尚よ」、「喏――ハイ」。「惺惺著――目をさましているのか! 主人公がお留守になっていないか!」、「他時異日人の瞞を受くること莫かれ――他人のうわさ話を気にするな!主人公を見失うなよ!」、「喏喏――ハイハイ」

 このように来る日も来る日も自問自答し、自ら警策(むち打つこと)を加えて、自己を錬磨したのです。私達はついつい自分を見失って、他に引きずりまわされるのが常です。
 近頃、社会を騒がすニュースと云えばオウム真理教の事件です。発足以来、数年で若い多くの信者を獲得して、海外までも活動拠点を拡げたといわれています。
 その一部の若者達が暴走し、何の外連(けれん)みもなく殺人まで犯してしまう。なぜ? なぜ? と疑問符ばかりが残る事件です。有識者はその疑問に答えて、いろいろと指摘します。「宗教」「教育」「家庭」「社会」等々に問題ありと。それも一理です。しかしそれらをトコトン追究してゆけば、彼等の一人一人の「心」の問題に帰着します。
 「マインドコントロール」なるものが何たるものかはわかりませんが、エリートといわれる若者が、他の命ずるままに殺人までのめり込んで行くとは……。
 思えば、彼等の「心」が自立していなかったのではないでしょうか。自分で考え、自分で決断し、自分で行動するという自主性が確立していなかったのではないでしょうか。そこまで到った原因は、宗教にも、教育にも、家庭にも、社会にも問題は多々あると思います。しかし、それらがすべて万全であっても自分自身がその気になって努めなければ、得る事が出来るものではありません。
 他に責任を転嫁する前に今一度、本当の自分自身を探し尋ね、自分自身を見つけ、そして自分自身を鍛え、自分自身を確立して、自分自身に正直に生きる、それが自主性の確立です。人間としての完成でもあるのです。
 「惺惺著」、参じて余りある禅語ではないでしょうか。