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曹源一滴水 (碧巌録) そうげんのいってきすい

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

05月を表す季節の画像

 「曹源」とは、曹渓の源泉の意味で、曹渓とは、六祖慧能(えのう)のこと。達磨(だるま)慧可(えか)僧粲(そうさん)道信(どうしん)弘忍(ぐにん)と続いて来た禅の流れが、六祖慧能禅師によって大成し、臨済(りんざい)
雲門(うんもん)洞山(どうざん)潙山(いさん)法眼(ほうげん)という禅匠たちによって、臨済宗、雲門宗、曹洞宗、潙仰宗、法眼宗の五家と、これに臨済宗の二派、楊岐(ようぎ)派と黄龍(おうりょう)派を加えて五家七宗に分化発展し、日本にも二十四流の禅として伝えられ現在に至っているわけです。この源をさぐれば、すべて「曹渓」の一滴水から流れ流れて来たものにほかなりません。故に転じて禅の根本を「曹源の一滴水」といい、禅の真髄、正伝の禅法を「一滴水」といいます。
 一滴水といえば、このような話があります。
 明治の初め、京都嵐山の天龍寺の管長になられた滴水(てきすい)宜牧(ぎぼく)禅師は、修行時代を岡山、曹源寺(そうげんじ)の儀山禅師の下に過ごします。ある日の夕方、師が入浴中、滴水に問います。

「わしが風炉から出たら水をどう始末するのか」
「老師の次の人が入ります」
「それがすんだら」
「私たち小僧たちが入ります」
「それがすんだら」
「捨てます」
 答えるが早いか、儀山の大喝(だいかつ)一声(いっせい)が飛んでまいります。
「バカモノー、なぜ木の根にかけぬ。一滴の水をも粗末にしてはならぬ」

 この一声が心底に徹して、益々修行に励みます。そしてついに五十歳の若さで、天龍寺の管長に推されます。よほどそのことを肝に銘じたのか、以後、(ごう)を「滴水」と改め、七十八歳の生涯を閉じるまで、「水は仏の御命である。一滴の水をもムダにせぬように」と口グセのように言い続けて信者たちの教化に尽くされました。
 こんな話もあります。
 ことし三月十六日夜、豊橋市のあるボーイスカウトの一団が、水筒を肩にかけて、地元を出発した。 小学校六年生から中学二年生まで三十七人、それに引率の先輩たちである。めざすは、ここから五十二キロ離れた宇連ダムである。
 春とはいえ、まだ夜は寒い。小雨もぱらつく。交通量の多い国道を通るため、夜光塗料を塗ったタスキをかけている。途中、新城市の公園で夜食をとる。これまでボーイスカウトの訓練で夜間行進をしたことがあるが、今度はきつい。
 眠くなる。足が痛くなる。そのたびに先輩から「頑張れ」の声がかかる。行けども、行けども目的地は遠い。十一時間後の十七日朝七時半ごろ宇連ダムに着いた。山々にかこまれたダムの朝はすがすがしい。こどもたちは、水筒の水をダムのえん堤から一斉に流した。拍手と歓声が起きる。渇水で水位をさげたダム湖に、水筒の水は消えた。
 この一瞬のためにこどもたちは長い道を歩いた。豊橋をはじめ愛知県東三河地方は、昨年秋から慢性的な水不足になった。この一帯をうるおす豊川用水の水源である宇連ダムは、ことしはじめにはカラになった。
 こどもたちの家庭でも、水に対する関心が高くなった。そんなとき、このこどもたちは、すこしでも水をダムに返してやろうと、近くのお寺の井戸からくんだ水を水筒につめて運んだのだった。
 自分たちの飲む水がどこから来るのか、こどもたちは勉強した。そして、日ごろ水をむだ遣いしている大人たちへの警鐘にもなった。(昭和六十年七月二十三日『朝日新聞』夕刊「今日の問題」)

 道元禅師は、谷川の水を汲んで、杓底(しゃくてい)の水を元の谷川に還されたといわれます。茶人は釜から柄杓(ひしゃく)でお湯を汲み、必ずその半杓の湯を元の釜に戻します。水筒の水を水源地のダムに還す、それは量の問題ではありません。水を大切にする「心の問題」です。
 まさに水筒の水も「曹源の一滴水」です。