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明々百草頭 明々祖師意 (龐居士語録) めいめいたりひゃくそうとう
めいめいたりそしい

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

03月を表す季節の画像

 馬祖道一(ばそどういつ)の法を嗣いだ龐居士(?~八〇八)の娘、霊照(れいしょう)もまた親に劣らず、禅の心をもつ人物です。
 この親娘の問答が語録にあります。
 父、龐居士が娘に問いかけます。「古人(こじん)()う、明々たり百草頭(ひゃくそうとう)、明々たり祖師(そし)()如何(いか)()すや」。霊照が答えます。「老々(ろうろう)大々(だいだい)這固(しゃこ)語話(ごわ)を作す――お父さん、いい歳をして何をいっているのですか」。龐居士、驚いた顔をして問います。「(なんじ)作麼生(そもさん)――じゃ、お前ならなんという」。霊照、(おもむろ)に、「明々(めいめい)たり百草頭、明々たり祖師意」。龐居士、(うなず)いてにっこり笑います。
 答えは一緒です。どう違っていたのでしょうか。龐居士は、ただ古人の言葉として取り上げたにすぎません。霊照はこの「明々たり百草頭、明々たり祖師意」の語を、自分の見解(けんげ)として呈し、その真意を体得したのです。そこを看て取って龐居士は頷いたのです。
 「明々(めいめい)」とは、はっきり(・・・・)ありあり(・・・・)としているさま。「頭」は意を強める助辞。また、文字通りの頭、先のことと解することもできます。「百草(ひゃくそう)」とは、草花に限りません。森羅万象(しんらばんしょう)山河大地(さんがだいち)草芥人畜(そうかいじんちく)、一切の存在と現象を意味します。「祖師意」とは、祖師西来意(・・・・・)といわれるもので、達磨大師がインドから中国にやって来た本当の意ということから、禅問答の中では、仏法の真髄(・・・・・)とか悟り(・・)とかの意に用いられます。
 「明々たり百草頭、明々たり祖師意」。私たちの目前に拡がる山川草木(さんせんそうもく)禽獣(きんじゅう)虫魚(ちゅうぎょ)瓦礫塵芥(がりゃくじんかい)等一切の存在と現象一つ一つが、そのまま仏法の真理であり、悟りであるというのです。故に一草、一木、一匹、一箇の事々に、物々の一つ一つに耳を傾け、目を凝らし、心を通わせ、その真実の姿を収得しなければならないのです。霊照は父親の手引きで、目前の一草一木の先に輝く仏の命を学び取ったのです。
 近頃、星野富弘さんの『風の旅』という書物を読みましたが、彼は群馬大学教育学部保健体育科を卒業後、高崎市立倉賀野中学校に体育教師として赴任してわずか二ヶ月後、クラブ活動の指導中、過って墜落して重傷を負い、手足の自由を失います。
 九年間にわたる長い病院生活を続け、不治のままに退院。現在は群馬県勢多郡東村の自宅で療養のかたわら、口に筆やボールペンをくわえて、詩や絵をかいて雑誌や新聞に寄稿しています。そして、このたび『風の旅』(立風書房)を発行されました。その中の一節です。

私の首のように
茎が簡単に折れてしまった
しかし菜の花はそこから芽を出し
花を咲かせた
私もこの花と
同じ水を飲んでいる
同じ光を受けている
強い茎になろう

 菜の花の茎が簡単に折れてしまったように、私の首の骨もあっという間に砕けてしまった。私はがっくりしてしまったが、菜の花は挫折にめげず、「そこから芽を出し、花を咲かせた」のです。
 茎の折れた菜の花に自分の姿を発見したのです。茎の折れた花の声なき声を聞き、心を通わせ語り合って、自分の生き方を発見するのです。星野さんはキリスト教の信者です。しかし、百草頭の明々たるを知る人です。