馬祖道一の法を嗣いだ龐居士(?~八〇八)の娘、霊照もまた親に劣らず、禅の心をもつ人物です。
この親娘の問答が語録にあります。
父、龐居士が娘に問いかけます。「古人道う、明々たり百草頭、明々たり祖師意、如何に会すや」。霊照が答えます。「老々大々、這固の語話を作す――お父さん、いい歳をして何をいっているのですか」。龐居士、驚いた顔をして問います。「你、作麼生――じゃ、お前ならなんという」。霊照、徐に、「明々たり百草頭、明々たり祖師意」。龐居士、頷いてにっこり笑います。
答えは一緒です。どう違っていたのでしょうか。龐居士は、ただ古人の言葉として取り上げたにすぎません。霊照はこの「明々たり百草頭、明々たり祖師意」の語を、自分の見解として呈し、その真意を体得したのです。そこを看て取って龐居士は頷いたのです。
「明々」とは、はっきり、ありありとしているさま。「頭」は意を強める助辞。また、文字通りの頭、先のことと解することもできます。「百草」とは、草花に限りません。森羅万象、山河大地、草芥人畜、一切の存在と現象を意味します。「祖師意」とは、祖師西来意といわれるもので、達磨大師がインドから中国にやって来た本当の意ということから、禅問答の中では、仏法の真髄とか悟りとかの意に用いられます。
「明々たり百草頭、明々たり祖師意」。私たちの目前に拡がる山川草木、禽獣虫魚、瓦礫塵芥等一切の存在と現象一つ一つが、そのまま仏法の真理であり、悟りであるというのです。故に一草、一木、一匹、一箇の事々に、物々の一つ一つに耳を傾け、目を凝らし、心を通わせ、その真実の姿を収得しなければならないのです。霊照は父親の手引きで、目前の一草一木の先に輝く仏の命を学び取ったのです。
近頃、星野富弘さんの『風の旅』という書物を読みましたが、彼は群馬大学教育学部保健体育科を卒業後、高崎市立倉賀野中学校に体育教師として赴任してわずか二ヶ月後、クラブ活動の指導中、過って墜落して重傷を負い、手足の自由を失います。
九年間にわたる長い病院生活を続け、不治のままに退院。現在は群馬県勢多郡東村の自宅で療養のかたわら、口に筆やボールペンをくわえて、詩や絵をかいて雑誌や新聞に寄稿しています。そして、このたび『風の旅』(立風書房)を発行されました。その中の一節です。
私の首のように
茎が簡単に折れてしまった
しかし菜の花はそこから芽を出し
花を咲かせた
私もこの花と
同じ水を飲んでいる
同じ光を受けている
強い茎になろう
菜の花の茎が簡単に折れてしまったように、私の首の骨もあっという間に砕けてしまった。私はがっくりしてしまったが、菜の花は挫折にめげず、「そこから芽を出し、花を咲かせた」のです。
茎の折れた菜の花に自分の姿を発見したのです。茎の折れた花の声なき声を聞き、心を通わせ語り合って、自分の生き方を発見するのです。星野さんはキリスト教の信者です。しかし、百草頭の明々たるを知る人です。