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春入千林処々花 秋沈万水家々月 (葛藤集) はるはせんりんにいるしょしょのはな
あきはばんすいにしずむかかのつき

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

02月を表す季節の画像

 「処々」も「家々」も、ところどころではなく、「至るところ」ということ。寒い冬が終わり、春ともなれば、貧富大小の別なく、公平無私にうららかな春光がふりそそぎ、「千林」、すなわち至るところで芽を出し花を咲かせます。同じように秋にもなれば明月が皓々(こうこう)と輝き、「万水(ばんすい)」、すなわち洋々と拡がる海洋にも、滔々(とうとう)と流れる大河にも、満々とたたえる湖水にも、また小さな(つくばい)の水にも月影を写し出します。そこに何人の取捨選択の心もありません。皆な平等にその姿を映じます。
 「春は千林に入る処々の花、秋は万水に沈む家々の月」は、大自然の働きに(たと)えて、仏の慈悲がいかに公平無私にして広大無辺であるかを示した句です。
 仏の慈悲とは他人事ではありません。私たちの思いやりの心です。私たちはえてして、老若、男女、美醜、賢愚、貧富、大小等の違いによって差別しがちです。春の陽光のように、秋の美しい月のように千差万別の区別を越えて、誰にでも同じようにその恵みを及ぼさなければなりません。
 先日の『毎日新聞』に「広げたい!!代筆受験」という記事がありました。福岡県立稲葉高校に、一人の脳性マヒの少年が「代筆受験」によって合格した話です。
 彼の名は山本宣弘(のぶひろ)君。宣弘君は生後七ヶ月のとき、首がすわらないため通院していた病院で脳性マヒと診断され、上下肢ともに不自由で、食事、用便も介助が必要、言葉も慣れないと聞きとれないという状態の中での中学生活。車いすの宣弘君にはいつもお母さんが付き添い、授業中は机を並べてノートをとり、試験のときは先生の見守る別室で宣弘君の言葉を聞きとっての代筆でした。
 宣弘君も真剣に勉強し、口に絵筆をくわえて絵を描き、床を這って雑巾がけをする姿に、級友たちが感激し、学校の階段の上り下りは級友たちが数人がかりで運びます。マラソン大会では足自慢の友だちが、車いすを押して走り、修学旅行にも母子で参加します。 
 やがて違和感がなくなり、差別意識を払拭(ふっしょく)して、山本くんの真の友だち、即ち級友にとっても、山本君は「ごくふつう」の友だちになります。ですから、一緒に高校に進学することもごく当たり前だったのです。
 ところが一月になって山本君の受験に関する中学校側の問い合わせに、「代筆による受験は公正さを欠く」理由で断られます。「高校に行きたい」という宣弘君の当然の希望と、「なぜ宣弘君だけ駄目なの」という当然の気持ちが級友たちを動かし、生徒会を動かし、署名運動も始まります。町ぐるみの運動になって、ついに山本君の口述による受験が実現します。(昭和六十一年四月十二日)
 考えてみれば、「なぜ、同じ山本君なのに、彼だけが受験できないの!」という素朴な疑問が、この運動のきっかけだったのです。
 文明が発展し、経済が複雑化し、社会が階級化し、人間性喪失が云々される現代社会で、「同じであるのに、なぜ!」という認識は、一番求められているのではないでしょうか。
 「同じであるのに、なぜ!」。この認識、まさに、「春は千林に入る処々の花、秋は万水に沈む家々の月」の働きではないでしょうか?