死に臨んで怖がっている人を見て、私たちは何ができるのでしょうか。「私も後から行きます」と手を握って、孤独を癒すのも一つの方法です。また、ともにおろおろ泣いて慰めるのも一つの方法です。
しかし、それで死んで行く者に、果たして安心を与えることができるのでしょうか。また、臨終の枕もとで信仰を説くのも一法です。しかし、もう間に合いません。所詮、死んで行く者自身が常日頃から意識的に、安心を得て行くこと以外に方法はありません。
先頃、大阪に、誰も避けることのできない死を視野の中に入れ、死にゆく人々の言葉に耳を傾け、死を学ぶことを通じて、よりよく生きる道を探るという主旨の「生と死を考える会」が発足したことが『読売新聞』(昭和五十八年六月二日)に報ぜられていました。その発会式の折り、「私にとって死とは」と題して三人の体験発表がありました。
大阪の枚方市の山本さんは結婚二年目の二十五歳の娘さんと、その壻さんを、わずか一ヶ月違いでともにガンのために亡くした人です。
「娘は病床で聖書をむさぼるように読み、“平安です”といって死んでいきました。残された日記に、私にとって死とは? と尋ねられたら、“天に移されることです”と答えます、と書いてありました。信じ切れるものを心の中に持つことの大切さを、二人の昇天によって教えられました」 と涙ながらに語りました。
同じ大阪の吹田市の森山さんは、三年前、五十四歳の夫を胃ガンで亡くした人です。
死の三日前、主治医から「覚悟するように」といわれ、泣きはらした顔を夫にみつけられてしまった。「もう、あかんのだな」と夫はいい、備忘録、通帳、メモを渡し、「ここに全部書いてある。これから苦労をかけるけど、よろしく頼む。よくなったら、いままで以上にあんたを大切にしようと思っていたが・・・・・・」と泣きながら手を握った。夫は自立して生き、自立して死んで行きましたと報告しました。
「死」は確実にやって来ます。好むと好まざるとにかかわらず、間違いなくやって来ます。必ず死ぬと解っていても、自分自身にひしひしと感じることができません。しかし、肉親、あるいは親しい人の死に出遭って初めて、自分はこんな死に方ではなく、「もっとよりよき死を」という考えに至るのです。この「生と死を考える会」の主旨も、他人の悲しみの体験を学び、自分の問題として、よりよき「死」を考えようというわけです。
「紅炉上一点の雪」は、「死」に対する禅の答えです。
戦国時代、武田信玄と上杉謙信の戦いは有名な話です。川中島を中心に両者は幾たびか戦っていますが、永禄四年(一五六一)九月十日の早朝から始まった戦いが圧巻です。
信玄は悠然と床几に坐して作戦を練ります。
謙信は一挙に雌雄を決せんと、朝靄をついて一騎で信玄の本陣を襲います。突如として陣幕を蹴破って現れた謙信は、信玄めがけて、「如何なるか是れ剣刃上の事」と切りつけます。
信玄、あわてず、泰然自若として、「紅炉上一点の雪」と答えざま、持っていた鉄扇でハッシと受け止めます。「紅炉上一点の雪」によって、信玄は何をいおうとしたのでしょうか。
信玄は甲州塩山、恵林寺の快川禅師に禅を修し、また、謙信は毘沙門天への信仰も厚く、越後高田の林泉寺の益翁宗謙禅師に参じ、禅への造詣も深く、この両豪傑の「死」を儲けての問答、参ずる価値があるのではないでしょうか。
「如何なるか剣刃上の事」。いってみれば、「俺に一刀両断されたら、貴様は一体どうするのだ」、すなわち、「死」をどう受け止めるのか、と問いかけているのです。
それに対して、信玄は、「紅炉上一点の雪」と答えます。真っ赤におきた炭火の上に、どこからともなく、一点の雪が降ります。雪は一瞬にして消え、跡形もありません。
振り下ろす刃の下でも、生もなく死もない、すなわち、生への一かけらの執着もなく、死への微塵の恐怖もない、死ぬもよし、生きるもよし、と無心に鉄扇をもって受け止めたのです。
山本さんの娘さん、森山さんのご主人の死の受け止め方、形は変わっていますが、信玄の「紅炉上一点の雪」と受け止めたところと相通ずるものがあるのではないでしょうか。生きるも死ぬもサラリと行きたいものです。