禅語

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月在青天水在瓶 (槐安國語) つきはせいてんにあって
みずはへいにあり

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

10月を表す季節の画像

 唐代の禅僧、薬山(やくさん)惟儼(いげん)禅師(七四五~八二八)と、その弟子で文学者である李翺(りこう)との問答があります。李翺は禅に関心をもち、誰か師事するに足る人はいないかと物色中、湖南省に薬山惟儼禅師がおられるのを知り、早速、使いを出し、来たって法話をと再三懇請(こんせい)します。しかし、薬山禅師は、「道を聞きたければ千里を遠しとせず来たれ」と、一向に応じません。
 やむを得ず、李翺は薬山禅師の草庵を訪れます。何度、声をかけても、読経三昧、一瞥(いちべつ)もしません。李翺、腹が立つやら悲しいやら、「くそっ!見ると聞くとは大違い。法を聞くに足らぬ奴!」と悪態をついて帰ろうとします。しかし、せっかく遠路を来たのだからと思い直し、もう一度威儀(いぎ)を正して、「如何(いか)なるか()(どう)」と問いかけます。薬山禅師、李翺を一瞥して、一方の手で天を指し、もう一方の手で床の間にある浄瓶(じんびん)(水差し)を指して、「()すや――わかったか」。李翺はなんだかわかりません。「会せず」。薬山禅師、声を大にして、「月は青天に在って水は瓶にあり」と答えます。李翺、大いに得るところがあったといわれています。
 ――月は青天に皎々(こうこう)と輝き、水は瓶の中に静に収まっている。当たり前のことです。柳は緑、花は紅、眼は横に鼻は縦に、柱は縦に敷居は横に、犬はワンワン、猫はニャンニャン、カラスはカァーカァー、見るがまま、聞くがまま、あるがままの消息以外に法があるはずがないというわけです。
 京都の西北部に位置する栂尾(とがのお)に明恵(みょうえ)上人(しょうにん)(一一七三~一二三二)という方がおられました。もともとは華厳宗(けごんしゅう)の僧ですが、直接、釈尊の教えを体得しようと、宗派を超えて修行した人で、日本仏教史上特筆されるほどの高僧です。ある人の「仏教の教えを一番易しい言葉でいうとどういうことですか」という質問に、それは「阿留(ある)辺幾(べき)()()()」だと断言します。すなわち、

人ハ阿留辺幾夜宇和トイフ七文字(しちもじ)ヲ持スベキナリ。僧ハ僧ノアルベキヤウ、俗ハ俗ノアルベキヤウナリ。乃至(ないし)帝王ハ帝王ノアルベキヤウ、臣下ハ臣下ノアルベキヤウナリ。此アルベキヤウニ背ク故ニ、一切悪(いっさいあし)キナリ。

 明恵上人は僧侶は僧侶のあるべき姿、俗人は俗人のあるべき姿、帝王は帝王のあるべき姿、臣下は臣下のあるべき姿を保つことが、仏教の教えであり、このあるべき姿に背くから一切の悪いことが起こってくるというのです。
 月は青天に、水は瓶の中にと、あるべきところにきちんとある、人間として当たり前のことを当たり前にやる、あるべきよう(・・・・・・)にやっていく、これを()いて別に道があるわけではないというのです。私たちももう一度、あるべき姿をじっくり考えてみようではありませんか。