「ほうげじゃく」と読みます。間違っても「下着を放つ」と読まないでください。寒い冬の間は厚着をします。春になってだんだん暖かくなると、一枚脱ぎまた一枚脱いで薄着になっていく様子を下着を放つと説明した人がいたそうです。笑えない話です。
「放下」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意です。「著」は命令の助辞で、放下の意を強めるために用います。「放下著」、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!というわけです。
『五家正宗賛』の趙州和尚の章にある話です。
あるとき、厳陽尊者という修行者が趙州和尚に問います。「一物不将来の時、如何――私は長い修行の甲斐あって、煩悩妄想を断じ、自己本来の
仏性を体得して無一物の消息を得ました。これから先、どう修行したらいいのでしょうか」。すると趙州和尚が答えます。「放下著」と。
厳陽尊者は一応、如何いたしましょうかと謙遜して聞いていますが、自分の無一物の境界を見てくれといわんばかりの態度を看て取った趙州は、その無一物の境涯も捨ててしまえとばかりに、「放下著」と一喝を浴びせたわけです。厳陽尊者は無一物の消息を得たかもしれませんが、まだその無一物を誇示しようとする
自我が残っています。「放下著」と一喝されても、まだその辺がわかりません。「既に是れ一物不将来、箇の什麼をか放下せん――私はすでに荷物をも捨て切った無一物の境界です。何もありません。一体何を捨てろとおっしゃるのですか」。趙州和尚、最後に、「放不不ならば担取し
去れ――捨てることができなければ、その無一物を担いで去れ」。ここで初めて尊者は気がつきます。
私たちは刻苦、血の涙で修行に修行を重ねて、ついに悟りを得ることができます。しかし、禅はそれだけでは満足しません。さらに修行を重ねて、その悟りをも、その菩提をも捨て去る修行に打ち込みます。そして、迷いも、悟りも捨て切った洒々落々の消息を目指します。
味噌の味噌臭きは、上味噌にあらず、悟りの悟りの臭きは上悟りにあらず、といわれる所以もそこにあります。
無住法師の『沙石集』にこんな話があります。
ある山中で四人の僧が、無言の行を始めます。夜になって、灯明の火が消えます。一人の僧が大声で下男を呼んで、油を足せと命じます。それを聞いた第二の僧が、無言の行中に声を出すのは何事か、と叱ります。第三の僧が第二の僧に注意します。貴公も声を出したのではないか、と。最後に第四の僧がいいます、声を出さぬのはこの俺だけだ、と・・・・・・。
声を出さぬのは俺だけだ!俺だけが本物だという意識、「一物不将来の時、如何」と誇示するところ、自我の塊です。この自我が、一番始末に負えないのです。放下著、この自我を捨てよ!といっています。自分の持っている名誉、財産、知識、立場、主義等を捨てよというのではなく、持っている自分自身を捨て切れと教えています。
西郷隆盛は、「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬ人が、一番扱いにくい」といっています。「放下著」を体得した人間のことではないでしょうか。
何かと自己顕示欲の旺盛な昨今、「放下著」の語に参ずるのも必要なことです。
物もたぬ たもとは軽し 夕涼み