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放下著 (五家正宗贊) ほうげじゃく

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

08月を表す季節の画像

 「ほうげじゃく」と読みます。間違っても「下着(したぎ)(はな)つ」と読まないでください。寒い冬の間は厚着をします。春になってだんだん暖かくなると、一枚脱ぎまた一枚脱いで薄着になっていく様子を下着を放つ(・・・・・)と説明した人がいたそうです。笑えない話です。
 「放下(ほうげ)」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意です。「(じゃく)」は命令の助辞(じょじ)で、放下の意を強めるために用います。「放下著」、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!というわけです。
 『五家正宗賛(ごけしょうじゅうさん)』の趙州(じょうしゅう)和尚の章にある話です。
 あるとき、(げん)(よう)尊者(そんじゃ)という修行者が趙州和尚に問います。「一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)の時、如何(いかん)――私は長い修行の甲斐あって、煩悩妄想を断じ、自己本来の
仏性を体得して無一物の消息を得ました。これから先、どう修行したらいいのでしょうか」。すると趙州和尚が答えます。「放下著」と。
 厳陽尊者は一応、如何いたしましょうかと謙遜して聞いていますが、自分の無一物の境界(きょうがい)を見てくれといわんばかりの態度を看て取った趙州は、その無一物の境涯も捨ててしまえとばかりに、「放下著」と一喝(いっかつ)を浴びせたわけです。厳陽尊者は無一物の消息を得たかもしれませんが、まだその無一物を誇示(こじ)しようとする
自我が残っています。「放下著」と一喝されても、まだその辺がわかりません。「(すで)に是れ一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)()什麼(なに)をか放下せん――私はすでに荷物をも捨て切った無一物の境界です。何もありません。一体何を捨てろとおっしゃるのですか」。趙州和尚、最後に、「(ほう)()()ならば(たん)(しゅ)
()れ――捨てることができなければ、その無一物を担いで去れ」。ここで初めて尊者は気がつきます。
 私たちは刻苦(こつく)、血の涙で修行に修行を重ねて、ついに悟りを得ることができます。しかし、禅はそれだけでは満足しません。さらに修行を重ねて、その悟りをも、その菩提をも捨て去る修行に打ち込みます。そして、迷いも、悟りも捨て切った洒々落々(しゃしゃらくらく)の消息を目指します。
 味噌の味噌臭きは、上味噌にあらず、悟りの悟りの臭きは上悟りにあらず、といわれる所以もそこにあります。
 無住(むじゅう)法師の『沙石集(しゃせきしゅう)』にこんな話があります。
 ある山中で四人の僧が、無言の(ぎょう)を始めます。夜になって、灯明(とうみょう)の火が消えます。一人の僧が大声で下男(げなん)を呼んで、油を足せと命じます。それを聞いた第二の僧が、無言の行中に声を出すのは何事か、と叱ります。第三の僧が第二の僧に注意します。貴公も声を出したのではないか、と。最後に第四の僧がいいます、声を出さぬのはこの俺だけだ、と・・・・・・。
 声を出さぬのは俺だけだ!俺だけが本物だという意識、「一物不将来の時、如何」と誇示するところ、自我の塊です。この自我が、一番始末に負えないのです。放下著、この自我を捨てよ!といっています。自分の持っている名誉、財産、知識、立場、主義等を捨てよというのではなく、持っている自分自身を捨て切れと教えています。
 西郷隆盛は、「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬ人が、一番扱いにくい」といっています。「放下著」を体得した人間のことではないでしょうか。
 何かと自己顕示欲の旺盛な昨今、「放下著」の語に参ずるのも必要なことです。

 物もたぬ たもとは軽し 夕涼み