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日々是好日 (碧巌録) にちにちこれこうにち

『和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集―』
(2005.11禅文化研究所編・刊)より

06月を表す季節の画像

 昔、中国の雲門大師が、ある時、お弟子たちに向かって「十五日()(ぜん)は汝に問わず、十五日已後、一句を()()()たれ――これまでのことは尋ねまい。明日からどういう生活をする覚悟か言うてみい」と言って、ずうっと皆の顔を見わたされました。学校を卒業するまでのことは何も聞かぬ。学校を出て、今日から会社に入るとしたら、どういう決心で働くつもりか。結婚するまでのことは尋ねまい。今日式を挙げて夫婦になったら、明日からどういう心構えで暮らすつもりか。お互いに言ってみようということにもなりましょう。
 ところが大衆は瀬戸物の巾着(きんちゃく)のように、口を固く閉じたまま、うんともすんとも申しません。そこでとうとう雲門大師がしびれを切らして、皆に代わって、そうした場合の覚悟の一句を示されました、「日々(にちにち)()好日(こうにち)」と。
 この言葉は、今日あまりにもよく知られておりますから、充分ご承知だと思います。通俗的にこれを解釈しますと、「毎日おかげさまで、感謝して暮らしております」ということになりますが、もしそんな単純なことでしたら、何も雲門大師を煩わすこともないはずです。
 昔、南禅寺の門前に、泣き婆さんという有名な婆さんがあって、降っても照っても年中泣いてばかりおりました。ある時、南禅寺の方丈さまが、おかしな婆さんだと思って、「婆さんや、おまえはいつ通ってみても泣いてばかりおるが、何がそう悲しゅうて泣くんや」と尋ねられますと、婆さんは涙をふきふき答えました。
 「方丈さま、まあ聞いておくんなされ。私に二人の息子がありましてな、一人は三条で傘屋をしており、一人は五条で雪駄(せった)屋をしています。雨が降ると五条の雪駄が今日は売れんじゃろうと思うとかわいそうで、つい泣けます。天気だと三条の傘がさっぱり売れんじゃろうと思うと、これもかわいそうでまた泣かずにおれません」
 方丈さまがそれを聞かれて、「そりゃ婆さん、おまえ、心の持ち方が悪いわい。雨が降ったら三条の傘が売れて売れて、目のまわるほど忙しいと思ったらうれしかろうが。天気になったら五条の雪駄が羽が生えて売れると思ったら、これも有り難かろうがな。おまえのように物事をそう悪いほうにばかりとってはいかぬ」と言うて聞かされますと、婆さんもなるほどと合点し、それから毎日、喜んで笑って暮らすようになったと申します。
 このように世の中は万事、心の持ちよう一つで、「日々是れ好日」と喜んで暮らせるのだとも解釈できますが、そのくらいのことなら、何も雲門大師に言うてもらわねばならぬことはありません。
 台風で屋根は吹っとび、浸水は床上まで越し、子供は流された、主人は出たまま帰らない、電灯は幾日もつかない、米はない、水はない、そんな場合でも、「日々是れ好日」といただけるでしょうか。おかげさまでと感謝されましょうか。心の持ちようで解決できましょうか。雲門大師ほどの大徳の言われたのは、そのような極端な、万一の不幸をも計算に入れての「日々是れ好日」であるはずです。
 良寛さんが、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく(そうろう)、死ぬ時節には死ぬがよく候」と言った境地こそ、この心境でありましょう。どんな災難が湧き起こっても素直に受け入れられる心、たとい大病になっても、うろうろせずに静かに病人になっておれる心、殺すと言われても笑って手が合わせられる心、そんな心が自覚できませんと、軽々しく「日々是れ好日」などと大口は叩かれません。
 それは心が絶対無にならなければできぬことであります。(めい)歴々(れきれき)()堂々(どうどう)、縦には三世を貫き、横には十方に通貫する絶対無の心を、「摩訶(まか)」と申します。「摩訶般若」の「摩訶」であります。翻訳して「大」と申します。