出典等は不詳ですが、暑い夏が終わり、秋が深まってくると茶席でよく見かける句です。
昨年の秋、京都の高雄の紅葉を見ようと一年前から宿の予約をして檀信徒の方々と旅をしました。天気はよかったのですが、待望の紅葉はさっぱりでした。何故と聞くと、御承知の通り昨年は気候不順、日照時間もほとんどなく、秋に入っても一向に寒さも加わらず、結局紅葉するまでにちりぢりに散るという具合で、一同ガッカリして帰って来たのが昨日のように思い出されます。要するに暑さ寒さの気温の差が大きくならないと、錦繍を織りなしたような色あざやかな紅葉を見る事が出来ないのだそうです。
「楓葉は霜を経て紅なり」の句もその辺の消息を云おうとしています。「楓」とはかえでの事、即ちもみじとも云います。楓の葉は骨に徹するほどの厳しい霜を経験して初めて真赤に紅葉し、そうでなければ美しい紅葉は見られないというわけです。この句はただ美しい紅葉の風景を云っているのではありません。また、紅葉になる植物の生態を述べているのでもありません。私達もこの楓葉のように人生の様々な苦労を経験し、それを耐えしのぐ事によって初めて人間として成長すると云っているのです。
私達は何かというと安易な道を選ぼうとしますが、戦国時代の武将、山中鹿之助は、「我に七難八苦を与え給え」と神仏に祈願して自分を鍛えたと云われています。時には求めて「霜」の厳しさも味わう必要があるのではないでしょうか。
「艱難汝を玉にす」、「かわいい子には旅をさせろ」とか云われます。苦難艱難を一つ一つ克服する事によって人生の深みも増し、何物にも負けない強い人間に成長するのではないでしょうか。
拙寺の近くに豪徳寺という曹洞宗の寺があり、その境内に万延元年(1860)に桜田門外で水戸浪士によって暗殺された井伊直弼の墓があります。彼についてはNHKの大河ドラマ「花の生涯」で紹介されて以来、誰も知るところとなりましたが、波瀾万丈の一生を送りました。
井伊直弼は、文化12年(1815)に十一代彦根藩主の十四男として生まれますが、五歳で母を失い、十七歳で父と死別します。嫡子ではなかったので、井伊家の家風に従い、藩から三百俵の宛行扶持を支給され、城内を出て北屋敷に移り住みます。しばらくして大名の養子口の話で異母弟と二人で江戸に出ますが、弟が選ばれ失意の内に帰彦します。
そして自分の居室を「埋木舎」――埋木とは長く水や土の中に埋もれた木の事で、世間から顧みられない不遇の身の上を意味します――と呼び閑居します。その間、経済的にもかなり苦しかったようで、直弼はこの世の辛酸をつぶさになめることになります。
しかし直弼はこのような境遇にあっても、「ただうもれ木の籠り居て、なすべき業をなさましとおもひ……」と『埋木舎の記』の中に述べているように、決してひがむ事なく、なすべき業がありと積極的に学問、修養に励みます。
居合術では奥義を極めて一派を創立するほどの腕前となり、茶道では片桐宗猿に就き石州流を確立し、『茶湯一会集』を著わします。また、本居派の国学者長野義言と共に、国学の研究に没頭します。
しかし忘れてならない事は、直弼のこの充実した精進の裏には、禅の修行があった事です。直弼は十三歳から彦根の清涼寺(曹洞宗)の道鳴、師虔、仙英の歴代の和尚に参じ、修禅に励んだと云われています。
「大徹底の人はもと生死を脱す。何に依ってか命根不断なる――大悟徹底した人は生死を超越する。どうして生死に執らわれない命を得る事が出来るか」
という仙英和尚の問いに、直弼は即座に、
わたつ海の底にはふちも瀬もなくて 水のみなかみ常にたえせず
と答えます。和尚はこの道歌に頷き、偈を与えます。
無根水上の活飛龍
雲を排し霧をひらいて九重を出づ
威気自然畏るる処なし
霊幽未だ窺い窮むることを許さず
和尚は直弼を活きて飛ぶ龍にたとえて讃嘆します。井伊直弼といえば、「茶人」「剣人」「国学者」「大老」というイメージですが、禅道においても深い悟境があったのです。
苦節十八年、十二代藩主の死によって直弼はついに十三代の藩主となり表舞台に出て来ます。長年の下積の生活で一般庶民の心情や生活がよく理解出来たので藩政でも実績を上げる事が出来、それが認められて幕府の要職に招かれ、ついに開国を断行し、日本の命運を開く事になるのです。思えば埋木舎の不遇な時代の「苦闘」があったからこそ、後の「井伊直弼」があったと云っても過言ではありません。直弼の一生、「楓葉は霜を経て紅なり」の句と重なります。