禅語

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主人公 (無門関) しゅじんこう

『床の間の禅語』
(河野太通著・1984.7.禅文化研究所刊)より 

10月を表す季節の画像

 瑞巌(ずいがん)和尚、毎日自ら主人公と()び、()た自ら応諾(おうだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、(だく)。他時異日、人の(まん)を受くること莫れ、喏喏(だくだく)」(『無門関』第十二則)
 瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「ハイ」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましているか」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」といって、毎日ひとり言をいっておられたというのです。
 ここでいう主人公とは、家庭の主人のことではありません。もちろん、会社の社長でもない。人間一人ひとりの主体的な人格のことです。
 私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちです。とくに今日、私たちをとりまく環境からくる刺戟はたいへんなもので、外のものに目を奪われている間に、自己を喪失しやすくなっています。そこで、いつも主体的な自分というものを、はっきりと自覚していなければなりません。「おい、主人公、目を覚ましているか」とみずからを覚醒しなければならない。
 盤珪(ばんけい)禅師はこういわれています。

 (ぬし)と申さば一切に自在なるところの名じゃ。自在とは自ずから在るということではござらんか。

 主体的な自己である主とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいることをいいます。また、自在ということは、自ずから在るということで、力まず、自然に無心な己れ自身であることです。心に何もなければ、いつ、どこででも固くならずにいることができます。どうしても固くなるのは、心の中に何かがあるからです。
 心の中に何の思いもないときは、自由自在ですから、どこへ行っても自分の家にいるのと同じです。どこへ行っても遠慮せずにおられます。お釈迦さまは「この世界はわが家だ」と悟られました。そして、世界の主人公になられたのですが、それが主体的な自己というものです。