初秋のころ、よく見かける句です。暑い夏も終わり、九月のある日、あくまでも澄み切った空に皎々と一輪の月が白く輝き、どこからともなく一陣の清風が吹き渡って、木々の葉を鳴らします。草叢からは虫の鳴き声も聞こえます。秋だなあ! 秋なんだ! この清涼極まりない風景を「月白く風清し」と簡単明瞭に頌したわけです。しかしこの句は、ただ単に自然の美しさを詠嘆しただけではありません。この句の裏に人間を見なければ、句に参じたとはいえません。
私たちは何かというと、金にとらわれ、地位にとらわれ、名誉にとらわれ、主義にとらわれ、自分にもとらわれて、二進も三進もいきません。これらの執着物を一切断ち切って、洒々落々、自由自在のサバサバした境界になりたいものです。その清々しさを、「月白く風清し」と頌したのです。
しかし、このすばらしい境界は鍛錬しぬいた大禅者のみの消息ではありません。近ごろ、九十二歳の長寿を全うして亡くなった童話作家、坪田譲治さんの母、おゆきさんの話を聞きました。このおゆきさんこそ、「月白く風清し」の生涯ではなかったかと思われてなりません。
昔(明治、大正の話です)、岡山県に生まれたおゆきさんは十代で結婚しますが、夫が放蕩者で苦労します。その夫も、借財と数人の小さな子どもたちを残して死んで行きます。若いおゆきさんは一生懸命に働きます。子どもたちをなんとか一人前にし、借金を返し終わったときはもう六十の年でした。髪の毛も白く、もう本当にふけ込んだ老人でした。子どもたちは感謝の気持ちで母親に、「お母さん、ありがとう、僕たちがみんなで協力するから還暦のお祝いにゆっくり温泉に行って骨休みしてきてください」と頼みます。
しかし、おゆきさんは頑として受けつけません。あまり子どもたちが勧めるので、彼女は遠慮しながら言います。「実家も貧乏だったので小学校にもろくに通っていない。還暦で赤ん坊にもどったのだから人生を出直したい。今からでも遅くない。ぜひ村の小学校に通わせておくれ」。
息子たちは当惑するが、おゆきさんはぜひと頼みます。現代なら珍しいことではないかもしれませんが、大正の頃です。しかし、息子たちの骨折りで彼女は小学校五年のクラスに入学します。無事卒業して今度は当時の実科女学校に入学し、そのころには珍しかったミシンを習って洋裁を修得します。近所の人や親戚の人に求められるままに、新しいデザインでドレスなどを作ってはみんなから喜ばれます。
やがて、おゆきさんもこの世を去るときがきます。枕辺に集まった息子たちに、「私も一生懸命勉強したがどんなものかいのう」と聞きます。坪田譲治さんは母の耳に口を寄せ、「お母さんは立派だよ、閻魔さんもびっくりするよ」と言います。おゆきさんは満足そうに、「大学出のお前さんにそのように証明してもらって、これで安心した」とにっこり笑って静かに息を引きとります。
(昭和五十七年七月二十三日『中外日報』社説「この母ありて」参照)
「月白く風清し」―私たちなりに、「月白く風清し」の境界で生きたいものです。
禅語
月白風清 (槐安国語) つきしろくかぜきよし
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より