「薫風南より来る」と読むより「薫風自南来」と読むのが習慣的です。
この語には面白い因縁話があります。唐の文宗皇帝(840年没)が、
人は皆炎熱に苦しむ
我は夏日の長き事を愛す
と起承の句を作ったのを承けて、詩人である柳公権(856年没)が、転結の句を作って一篇の詩といたします。
薫風自南来
殿閣微涼を生ず
世間一般の大多数の人々は夏の日のカンカン照りの厚さを厭がるけれども、私はその夏の日が一年中で一番長いのが大好きである。暑い暑いといっても、時折り、木立を渡ってそよそよと吹いてくる薫風によって、さしも広い宮中もいっぺんに涼しくなり、その心地よさ、清々しさはむしろ夏でないと味わえないというわけです。
しかし約二百年後、宋の詩人、蘇東坡(1101年没)は、この詩には残念ながら為政者として庶民への思いやりがない。すなわち、風も通さぬウサギ小屋のような小さな家に起居し、炎天下、農耕に、商売に精を出さねばならない一般庶民の苦しさを忘れて、夏の長い日を広々として宮中で遊んで暮らせばよい皇帝の思い上がりの詩であると批評し、当時の上流階級の人々への諷刺をこめて一篇の詩を作ります。
一たび居の為に移されて
苦楽永く相忘る
願わくは言わん此の施しを均しくして
清陰を
四方に分かたんことを
皇帝陛下は生まれながらにして広々とした宮中に住んでおられるので、天下の人々が炎熱の中に苦しんでいるのに気がつかないのです。どうか、もっと天下万民の上に思いを寄せ、「薫風自南来、殿閣微涼を生ず」のような楽しみ、安らぎを人々に分かち与えてこそ、皇帝ではないでしょうか。
この語が禅語として重用されるのは、この因縁話に関係ありません。それは宋末の時代、臨済宗の公案禅――曹洞宗の黙照禅に対するもので、禅の問題すなわち公案を通して悟りに至らしめるもの――を完成した大慧禅師(1163年没)がこの語を聞いて大悟したといわれるためです。大慧禅師は「薫風自南来、殿閣生微涼」の語を聞いて、何を感得したのでしょうか。
私たちは何かというと得失にこだわり、利害にとらわれ、愛憎にかたより、善悪にこだわり、迷悟にとらわれ、凡聖にかたよって、右往左往する毎日です。しかし、それらの対立的観念を一陣の薫風によって吹き払ってしまえば、こだわりもなく、とらわれもなく、かたよりもない、自由自在なサッパリとした清々しい涼味を感じることができます。そのカラッとした、一切の垢[あか]の抜け切った無心の境涯を「殿閣微涼を生ず」と詠ったのです。
放浪の自由俳人、種田山頭火氏は、松山で人間道場”大耕舎”を主宰する大山澄太氏とは俳句・禅を通しての知友ですが、両氏が初めて対面するくだりを澄太氏が感激をもって講演されたのを聞いたことがあります。
――私は立ちどまった歩調を、またとっとと庵に近づけて行きますと、すっと障子が開きましてね、「澄太君かね」とこうおらぶんであります。「来ましたよ」そういうとですね、濡れ縁から彼は飛び出して、裸足で下りてきまして、大きな私を引っぱり上げてくれるんです。そして私を引っぱり上げるとすぐ、妙な人で、月並な挨拶なんかはさせませんですね、すぐ「君、いまちょうどお昼だ、飯を炊いて待っておるから食べてくれ!」と言って、もりもり茶碗によそってくれるんです。室中はガランとして無一物、お膳も飯台もない。古ぼけた畳の上に直接、箸と皿と湯気の立つご飯が置かれてるんです……中略……その時気がつくと、彼は食べないで、じっと私の方を眺めておるんです。「一緒に食べようじゃないかね」と言ったら、「君、ここはね、茶碗がそれしか無いんだよ。はよう食べてくれたまえ」……中略……本当にまあ、ありのままの山頭火なんです。そこで私も急いで食べて「ごちそうさま」とこう、箸を置いて合掌します。彼はすぐそのまま洗いもせず茶碗をとってもりもりと自分の飯をついで、実にうまそうに食べるんです。腹がへっておったのですね。一生懸命に無二無三に食べるんですね。キョロキョロしないんです。(大山澄太述『俳人山頭火の禅』臨済会刊)
山頭火の行動には何のこだわりも、とらわれも、かたよりもありません。生まれたままの赤子のような純粋な心が、そのまま行動になっているのです。山頭火の生きざま、まさに「薫風自南来、殿閣微涼を生ず」の端的ではないでしょうか。