碧樹とは落葉のない松や椿の常緑樹の事です。
清らかな渓流はこんこんと流れて絶える事がありません。松のような常磐木もいつも青々として決して凋む事なく永遠に碧を保つというわけです。
禅家がこの句を好んで用いるのは、ただ単に情景の清々しさだけではありません。
仏教の始まりはいうまでもなく十二月八日早暁、釈尊が菩提樹の下で坐禅を組まれ、悟りを開かれたのに始まります。そしてその心を、以心伝心、心から心へ一器の水を一器の器に移すが如く、仏々祖々、的々相承されて今に伝わっているのです。その間、一度も跡切れた事がないのです。その辺の消息を、「清流間断無く、碧樹曾て凋まず」というのです。しかし、そこで終わってしまってはこの句に参じたとはいえません。この句から一度も絶える事のない命脈を継ぎ得た大きな感激を読みとらねばなりません。
妙心寺開基、花園法皇は大灯国師の法を嗣いだ感激を、「往年の御宸翰(関山国師に宛てた手紙)」の中で述べています。
往年先師大灯国師の所に在りて、此の一段の事に於いて休歇を得たり。特に衣鉢を伝持するの後、報恩謝徳のお思い、興隆仏法の志、寤寐にも忘るること無し。
昔、自分は大灯国師の下で修行させて頂き休歇(大安心、即ち悟り)を得た。しかも、的々相承し来たった法を授かって以来、先師大灯国師始め仏々祖々の御恩にどう報いたらよいのか、どのように仏法を弘めていけばよいのか、寝ても覚めてもそれだけが気になる。
この思いがあってこそ、この句に参じたといえるのです。
太宰府の天満宮には楠の古木が多くそびえています。その一本に、俳人荻原井泉水さんの句があります。
くすの木千年さらに今年の若葉なり
千年の楠がさらに今年の若葉で相続されていく、今年の若葉があってこそ、千年が生きてくるのです。「仏法」「楠」だけではありません。我々の「生命」もまた、長い長い年月、生き続けて来たのです。『朝日新聞』に「三十三代八十五億人につながった命」と題する投書がありました。
命が貴いのはなぜだろうか。この問題を私なりに数字で出してみた。人間が生まれるには親が二人おり、祖父母は四人、その前は八人、さらに前は十六人になる。これを繰り返すと三十三回目には八十五億八千九百九十三万四千五百九十二人になる。 つまり、だれでも、わずか三十三代さかのぼるだけで、地球上の全人口よりもはるかに多い人々の影響を受けているのが、現在生きている私たちである。この人たちの中にはどんな優れた人たちがいたかだれにもわからない。しかし、確実に一人一人の体には伝わっている。また、別の言い方をすれば、そこに若者がいることは、将来どんなに世の中の役に立つ人間が出現するかわからないということである。 四十代さかのぼれば約一兆九百億人の影響を受けた命を、自殺とは、自らの手で消すことである……。 過去と未来をつなぐ架け橋、それが現在生きている人たちで、将来へ向けてスタートの一はあなたなのだ。苦しいことが多いけれど、未来を見つめて頑張ろうではないか。(平成七年一月九日)
この消息こそ、まさに「清流間断無く、碧樹曾て凋まず」の云わんとする所です。