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花薬欄 (碧巌録) かやくらん

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

05月を表す季節の画像

 『碧巌録』第三十九則に「雲門花薬欄」という公案があります。

()す。僧、雲門に問う、「如何(いか)なるか()清浄法身(しょうじょうほっしん)」。門(いわ)く、「花薬欄」。

 雲門文偃(ぶんえん)禅師(八六四~九四九)に一人の僧が問います。
 「煩悩妄想(ぼんのうもうぞう)がすっかりなくなった美しい清浄な悟りの本体とはどんなものでしょうか」。雲門、答えて曰く、「花薬欄」。花薬欄とは何の事でしょうか。古来より、花薬欄についてはいろいろ解釈が分かれます。即ち、便所の(まがき)(生垣)とか、柵をめぐらし丁寧に囲った芍薬(しゃくやく)の植えこみ、或いは一般の花畑という意もあります。
 清浄法身という問いに対して、不浄なもので答えるという意味で、便所の袖垣と解すも一理あります。しかし、少々理屈が過ぎます。それよりも、どんな花でもいい、何も、牡丹(ぼたん)や芍薬でなくとも、小さい名もない雑草の花でもいい、色々な花が咲き乱れる花畑と解す方がより禅的です。
 「清浄仏」、そこに美しい花が一パイに咲いているではないか。じっくり見なさい、花それぞれが、その色を誇る事もなく、花を競う事もなく、ありのままの姿を呈して、仏の真面目(しんめんもく)を発揮しているではないか、それ以外に何の清浄法身があろうかというわけです。
 仏教詩人、坂村真民さんに「野の花」という詩があります。

明るくて
朗らかで
いつもにこにこしている
野の花

神から授かった
そのままの装いで
今も咲いている
野の花

素直で
遠慮深くて
つつましい
野の花

わたしは足をとめ
じっと見つめる
するとかならず
声がきこえてくる
それは神のことばのように
わたしの詩心を
瑞々しいものにしてくれる

ああ慕わしいのは
野の花
野の人
野の心