『碧巌録』第五則「雪峰尽大地」の公案の頌にある言葉です。
寒風吹きすさぶ冬の時節は、見渡す限り枯野原でも、ひとたび春風が吹けば、何処からともなく次から次へと青い芽を出し、たちまち緑をつけて、一斉に花を咲かせます。梅、桃、桜、牡丹、五月、つつじ等が、まさに百花繚乱と咲き乱れます。花の便りに浮かれ出て酒宴を設け、放歌乱舞の乱痴気騒ぎの「花見」だけでは花に申し訳ありません。この百花の姿が私達に大切な事を教えているのです。
江戸の漢学者、佐藤一斎の言葉にあります。
月を看るは、清気を観るなり、円欠晴翳の間に在らず。花を看るは、生意を観るなり、紅紫香臭の外に存す。(『言志四録』)
月を観るのは清らかな気を観るのであって、月が円くなったり、欠けたり、晴れたり、かげったりする形を観るのではない。花を看るのも、その生き生きとした花の心を観賞するのであって、紅や紫の色とか、香りのような外に現われた様子を観るのではない。
即ち花の生命、心を学ぶべきだというのです。
「百花春至って誰が為にか開く」。花は一体、誰の為に咲くのでしょうか。誰の為でもありません。何の為でもありません。そこにはそういったはからいは微塵もありません。自分の生命の赴くままに自分の全生命を無心に発揮して、天地一パイに「ただ、ただ」咲いているのです。
ただ咲いて、私達に生き方を教え、勇気づけ、慰め、そして楽しませてくれます。しかもその功を少しも誇る事もありません。なんとすばらしい事ではないでしょうか。
花といえば小島昭安師が著作の中で心温まる話を紹介しています。
ある日、浅草のある幼稚園の前を通りかかった時、園舎の片すみにあるごみ捨て場に、園児(女児)が一人、枯れかかった花を持って、走ってきました。
で、何気なく見ていますと、その子は大きな声で、「花さん、どうもありがとう」と言って、ポイと捨てました。その行為に、ハッと胸をつかれた私は、その子を呼びとめて尋ねてみました。「いつもそういって、お花を捨てるの?」
するとその子は、首を大きく、こっくりすると、こう言ったのです。「そうよ、お母さんはいつも、そうしてるのよ。だって花はきれいに咲いて、みんなを嬉しくさせてくれたんだもの。だからお礼を言って捨てるの」
(総持寺出版部発行『心をたがやす』参照)
この子供も「花の生命」「花の心」のわかった子供です。否、「花誰が為に開く」のわかった子です。